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カズオ・イシグロのふるさと

ノーベル文学賞を受賞した長崎市出身のカズオ・イシグロ氏(62)。地元長崎は勿論、大喜びなのだが、市内と言ってもどこだろうと気になるのは僕だけではないだろう。彼は僕の1歳上だから尚更だ。

報道によると新中川町生まれだという。僕は新大工町(旧伊勢町)生まれだから桜馬場町を挟んでご近所さんではないか!僕をとってくれた病院は昔八幡町にあった高木産婦人科だが、彼もそこではないか?可能性は高い、いや絶対にそうだっ!(笑)

長崎は、南蛮貿易とキリスト教布教のため1570年に開港協定が結ばれ、現在の県庁付近に町建てが始まり発展してきたが、僕ら(笑)が生まれた町は、その開港以前の小さな漁村に過ぎなかったころからの古い長崎だ。

この近辺には、戦国時代の領主長崎氏の居城(城の古址)があったり、長崎初の教会(トードス・オス・サントス)跡や長崎街道の起点がある。諏訪神社を仰ぎ、中国寺(興福寺)や古刹が並ぶ寺町につながる。少し歩けばシーボルトの鳴滝塾、坂本龍馬の亀山社中もある。

まるで長崎、いや日本の歴史を凝縮したような小さなエリアだそこの空気を5年間吸ったカズオ(←もう呼び捨て笑)は脳裏に刻まれたこの町を心の原風景として膨らませ、自分の文学を作りあげたという。素晴らしい。

僕は残念ながら1歳の誕生日を迎えた後、浦上に移ったのだが、もしももう少し、ここの空気を吸っていたら・・止めておこう(笑)
これら↓のニュースがUPされたのが、彼と同じ62歳になった僕の誕生日ってのも縁を感じた。
◆ANNニュース
◆NCCニュース
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長崎の鐘を鳴奏会2017 第2日

8/7の2日め、
きょうは台風がそれたお陰で快晴で暑い!

長崎県被爆者手帳友の会の方々には、ご高齢にもかからず毎回参加していただいている。

きょうはfacebookのお友だち小吉さんや、9日にこの鳴奏会のことを放送してくださるFM長崎の松尾さんが参加してくださったり、4回目の打鍾の時には仙台から参加された方と一緒に「長崎の鐘」を歌ったりと嬉しい出来事があった。

2日目の模様はこちら
https://goo.gl/photos/rC3VFT3w68rFjSWL9

テーマ : 長崎
ジャンル : 地域情報

長崎の鐘を鳴奏会2017 第1日

今年で10回目を迎える「長崎の鐘を鳴奏会」
台風5号が九州に接近中で風が吹く中、実施しました。

開会式と第一日の模様はこちら

開会式の参列者は、
長崎県被爆者手帳友の会を代表して井崎猪之助さん
長崎市永井隆記念館の永井徳三郎館長
長崎平和推進協会(ピース・ウイング)の横瀬昭幸理事長
今年は、長崎親善人形の会(瓊子の会)のコーネル大学宮崎広和教授
アジェンダNOVAながさきの里重光代表

テーマ : ボランティア活動
ジャンル : 福祉・ボランティア

長崎学ネットワーク会議公開学習会 「時代劇舞台としての長崎」

7/31に長崎歴史文化博物館で開かれた学習会の講師は、東京学芸大教授の大石学氏。NHK大河ドラマ「龍馬伝」「篤姫」や映画「沈黙」など数多くの時代考証を手掛けられている方だ。
170731_時代劇舞台長崎1
歴史の深いお話しが聴けそうだとあって、僕が知ってる歴史好きの方々が大勢いらっしゃっていた。

そして講演はその期待を全く裏切らなかった。僕が覚えている話を以下に少し。

・江戸時代は、チャンバラで戦っているイメージがあるが、武士が刀を抜くことは滅多になく本当に平和で文化的な時代だった。
・鎖国というと閉ざされたイメージだが、長崎口(中国、オランダ)、対馬口(朝鮮)、薩摩口(琉球)、松前口(アイヌ)の4つの窓口を使って、しっかりと世界の情勢を把握していた。
・時代考証は難しいが、一生懸命調べても半分しか活かされなかった。
・制作サイドから様々な質問を受ける。例えば「桜田門外の変」の時、桜田門は開いていたか、閉じていたかとか。いろいろと調べて、開けてくれと返したら、いや開けたら向こうのセットが必要になるから開けないと。じゃ聞くなよ!(一同爆笑)
・最後に様々な質問が飛び交い、会場が盛り上がったが、「沈黙」でロドリゴが踏絵を踏んだ時に鳴いたのはどんな鳥だと思うかという教授の質問に知らない人がいたのに驚いた。あれは鶏だ。その意味は遠藤周作文学館の北村さんがしっかりと説明されていた。
・明治維新は、長崎発の維新だと言っていい。長崎はもっと再評価されるべきだと聞いて、僕も含めて皆さん気分よく帰られたと思う(笑)
170731_時代劇舞台長崎2
次回は、9/6(水)14:00-16:00、同じく歴文にて原田博二先生による「初公開・長崎諏訪神社祭礼図屏風の史料的意義について」予約不要・入場無料

ビルマで戦死した伯父の慰霊

 一昨年亡くなった母の11歳上の兄國治は1945年3月20日、ビルマ(現ミャンマー)のパコック県レッセで戦死した。享年25。陸軍曹長だった。



 父と母は戦後49年の年に、母の兄の五十回忌法要としてビルマ戦死者の慰霊ツアーに参加して、きれいにアルバムに整理していた。そのアルバムのメモにあった死亡日、死亡した場所、「歩兵153連隊」というキーワードを辿って、どんな戦いで亡くなったのかをネットで調べてみた。

■イラワジ会戦
 「インパール作戦」(昭和19年3月~7月)は、10万人の軍隊を投入し、戦闘のほか、飢えやマラリア、赤痢で死者は3万人、戦傷病者は4万5千人に上り、無謀な戦争の代名詞とされた。
 そのインパール作戦の敗戦から落ち込んでいた日本軍は、戦力回復を狙ってイラワジ河でイギリス連邦軍と戦った。この「イラワジ会戦」は昭和19年12月から昭和20年3月28日にかけて行われた。
 最後は3月28日の会議で、メイクテーラ奪還を強行し続けた田中方面軍参謀長に第33軍参謀辻政信大佐は自軍の対戦車戦闘による多大な損害を述べた上で、
「敵戦車1両を破壊するのに火砲1門と人員50名の犠牲とを必要とする。したがって残存約100両の戦車を破壊するためには約80門の火砲と5千の人員を補充しなければならない。それまでにしてなお、作戦を継続し、メイクテーラ奪還を強行しなければならぬかどうか、方面の真意を承りたい」
 と詰め寄り、いまだ攻撃意思を持っていた田中参謀長をしてついに第33軍の任務解除を承諾させた。これによりイラワジ会戦は終結した。
 イラワジ渡河以降、3月末までの英連邦軍の損害は概算して約1万8千名(内7,500は戦病者)で、日本軍の損害も概算して12,913名である。この後の後退戦において日本軍は、敗戦までに15万人以上の戦死者を出している。 あえて決戦を強行したことによってビルマ方面軍の破滅を早めてしまったことは日本軍にとって大きな痛手となった。(wikipediaより)

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▲伯父が亡くなった3月20日に撮られたイギリス軍のビルマ南部マンダレー南部での進軍の写真。
 戦利品である日章旗を誇示している。この日章旗の寄せ書きに伯父の関係者はいなかっただろうか。この兵士らと戦ったのではないだろうか。あと1週間生き延びていれば、この戦いは終わっていたのになどと思ってしまう。
 このイギリス軍戦車に対し、日本軍は歩兵による肉薄攻撃、あるいはタ弾による直接砲兵射撃によって応戦し惨烈な戦いを続け、イギリス軍は死守する日本兵に感嘆したのだという。


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▲イラワジ河湖畔のパガンで慰霊する父と母(前中央)DSC_2500.jpg
▲この時、母は遺族代表として追悼の辞を述べた。
DSC_2495.jpg

追悼の辞
 国治兄さん 妹のみつ乃です
 今日は主人と一緒に慰霊巡拝のツアーに参加して参りました
 ここパガンの地に立ち 雄大なイラワジ河の流れを望むとき
 母の言葉を思い出し胸が一杯です
 丁度 昭和二十年三月二十日夜 母が夢の中に国治兄さんが
 家の二階の窓から 絣の着物姿で「お母さん」と大きな声で叫びながら
 広い河の中を下流の方へ流されて行く様子をはっきり見たと、幼い私達に話をしてくれていました
 母はどれだけ悲しんでいたことか
 でも国治兄さんもどんなにか辛かったでしょう 苦しかったことでしょう
 本当にご苦労様でした
 今わたくしは母の思いをここに来て ようやく果たしたような気持で安心しています
 餅田家の家族は、父、母、康一兄さん、徳ちゃんが他界してしまいましたが、八千代姉ちゃん、八重子姉ちゃん、しげちゃん、みんなそれぞれに良いお母さんになって幸福に暮らしています
 ただ正樹兄さんだけが健康を害して入院加療中ですが、子供達が皆んな立派な社会人に成長してよく面倒をみています
 今日本は平和で自由で生活も楽になりました
 わたくし共家族もみなしあわせに元気に暮らしています
 これも国治兄さん初め多くの戦争犠牲者の方々のお陰です 心から感謝しています
 私共 現地で五十回忌の法要ができましたことを大変嬉しく思っています
 どうか安らかにご永眠ください こころからご冥福をお祈りいたします
    合掌   
 平成六年三月二十九日  林田みつ乃

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キリシタンの悲劇と復活

長崎文献社文化フォーラム◆世界遺産登録を前に考える
10728_キリシタンの悲劇と復活2「キリシタンの悲劇と復活」
10728_キリシタンの悲劇と復活1
7/28(金)18:30からNBCビデオホールで開かれたフォーラムの主なテーマは3つ。

■天正遣欧使節の一人千々石ミゲルはなぜイエズス会を脱会したのか?
→キリスト教が持つ愛ある顔ではなく、敵意ある顔を持っていたイエズス会をミゲルは批判し、対立より共存をと主張していたことに起因するのではないか。このことは紛争が絶えない現代にも通じることである。先見の明があった。ミゲルは最後までキリシタンであった。(大石一久)

■元和の大殉教の処刑地はどこだったか?
→ローマのジェズ教会にあるその殉教の絵と現地を詳細に比較すると、26聖人殉教地の北、現在の御船蔵町にある天理教肥長大教会の裏手の丘であることが分かった。(布袋厚)

■浦上四番崩れの一解釈
→島原の乱以降の前期の崩れ(大村郡、豊後、濃尾)には厳しい処罰が下されたが、後期の崩れ(浦上1~3番、天草)には柔和だった。浦上四番崩れでは、明治政府の柔和派と長崎裁判所の強硬派との攻防があった。一村総流罪ではなく分配預託。悲劇一辺倒で良いのか。今日的評価と史実を区別し、評価は受け手に任せるべき。(安高啓明)
10728_キリシタンの悲劇と復活3 

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親父の話~7.23長崎大水害

 きのう、1982.7.23に299人の犠牲者を出した長崎大水害から35年を迎えた。11時に黙祷のサイレンが鳴り、浦上キリシタン資料館で打ち合わせをしていた岩波さんと安元さんと一緒に1分間の黙祷を捧げた。
 あの日、僕は千葉に住んでいて、翌日の新聞でこの大惨事のことを知って心配になり、昼ごろ実家に電話をかけたところ、母から「あんた、今ごろかけてきて!うちは大変やったとばい。災害対策本部みたいになっとったとよ」と言われたことを思い出す。
 父にそのことを聞いてみた。以下父の話。

 当時は水道局長で、その頃ずっと日照が続いていて、また制限給水をしなければと検討していた矢先だった。久しぶりに振り出した雨に職員たちと共に喜び、局長んちでお祝いをしようという話しになり、10人ほどで大手町の実家に向かった。しかし、着くころには土砂降り。タクシーから降りて玄関に入るわずか2~3mの間でずぶぬれになるほどバケツをひっくり返したような雨であった。飲みだして早々、余りにも激しい雨が続くので職員の1人がちょっと見てくると出て行った。そして帰ってくるなり、「大変だ。浦上川が道路にまであふれてきていて、昭和橋が流されてなくなっている」との報告。それは大変だ。役所に戻らなければと、大手町から西山を越えて桜町の水道局まで10人はずぶぬれになりながら歩いて戻った。
 本庁でも助役を筆頭に災害対策本部が立ち上がった。しかし、本島市長はそこにはいなかった。雲仙で行われてた会議から戻って、銅座の行きつけの「たまお」で飲んでいて、出られなくなったという。そのことは後日、週刊誌が叩いた。
 被害状況が刻々と伝わってきた。山間では土砂崩れが各地で起こり、犠牲者が出た。中島川も橋が流され、あの眼鏡橋も上部が流されたが、橋げたはしっかり残ったため、そこに流木がひっかかり返って街中に水をあふれさすこととなった。思案橋辺りでは暗渠から水が噴き上がり、街全体を浸水させた。現在も思案橋の鉄塔に当時の水位を示す印が刻まれているが、背丈ほど高い。
 水道関係では、各水源地のダムから大量な水があふれ、下部にある浄水場の給水ポンプが水につかって動かなくなった。そして給水塔に水が送れなくなり、雪浦や神浦ダムから給水を受けてる地区以外は全市で水道が使えなくなった。
 8/9の原爆慰霊祭までには復旧しようという方針を出し、連日連夜の工事を続け、やっと前日に復旧を成し遂げた、という。

 この大水害や先日の北部九州豪雨で亡くなられた方々のご冥福を心よりお祈りします。
 自然災害はいつ誰の身に起こっても不思議ではない。備えよ常に❗はボーイスカウトの精神だ。

親父の話

 独り暮らしをしている親父の家に毎週水曜日に泊まりに行っている。夜、親父の手料理(肉ばかりだが…😅)をご馳走になりながら昔話を聞くのが楽しい。
 現在89歳、最近物忘れが激しくなったと言うが、昔のことはよく覚えている。高校を出て市役所務め一筋だったので、市長が官選だった最後の岡田寿吉(S16就任)から、公選となった初代の大橋博(S22)、田川務(S26)、諸谷義武(S42)、本島等(S54)と5人の市長の下で仕えてきたから、長崎の歴史を聞くようで面白い。
 祖父も市役所で水道畑だったらしいから、特に水道行政に詳しい。西山高部水源地にある社宅に住んでいたこともあったという。
 父も母も桜馬場に住んでいて、卓球を通して出会ったという。愛ちゃんと同じ?😄
 桜馬場は春徳寺から下りてくる道を境に蛍茶屋の方を上の切り、諏訪神社の方を下の切りと呼んでいたという。
 二人は長崎で初の神前結婚を始めた伊勢宮神宮で結婚。媒酌人は消防局長だった。
 そう言えば、新たな衝撃の?事実を知った。うちの寺は曹洞宗高林寺なのだが、父が上長崎小に通ってたころは臨済宗春徳寺だったというではないか!え?春徳寺って江戸の禁教令で破壊された長崎初の教会トードス・オス・サントスの後に移ってきた寺ばい!いつ変わったと?と聞くと、分からないという。何でも春徳寺の息子さんと仲が良く、息子さんがご住職に付いて父の家にお参りに来る時、恥ずかしがってたという。
 話は尽きない。お昼になった。この続きはまた😄✋
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安倍政権のすべてに反対する

自分は「左翼」だとは思っていない。
天皇を尊重するこの国が好きだし、日の丸も君が代も自衛隊もあっていいと思う。
安倍独裁政権
しかし、安倍政権が登場し、その国家主義的な思想をベースに、数を頼んで国会を強引に動かし、立憲主義をないがしろにするのを見て、今この政権のなすことすべてに反対している。あまりにこの政権は極右で危険である。むかしの自民とは全く違う。言わば安倍独裁政権である。

安保法の強行採決 ナチの手口
その政治手法がまた国民を愚弄している。
選挙の時は経済政策を訴え、数を勝ち取ると本音を出し「国家秘密保護法」を制定し、「集団的自衛権」の容認を閣議決定し、「戦争法」を強行採決してきた。今度はいよいよ彼らの本丸である「憲法改正」に手をつけようとしている。

麻生ナチス
「ナチスの手口を学んだらどうかね」とは麻生の言葉だったが、冗談だったとは思えない。ある意味「合法的なクーデター」だと思う。

そして、その支持母体である「日本会議」のことをなぜマスコミはもっと報道しない??

彼らは、先の戦争は自衛戦争だったとし、敗戦処理、いわば「東京裁判(極東国際軍事裁判)」を認めない。「日本国憲法」は勝者アメリカからの「押し付け憲法」だと軽蔑し、「明治憲法」の復権を目指す。時代錯誤も甚だしい。

そして戦後70年間、この憲法の「平和主義」によって世界的に信頼を得た平和な国日本をぶち壊すどころか、「基本的人権」や「国民主権」まで葬ろうとしているのだ。

国民は果たして彼らの「日本国憲法改正草案」を読んでいるのだろうか。おそらく百人に一人も読んでいないだろう。メディアもあまり取り上げない。簡単に言えば「国民あっての国家」ではなく、「国家あっての国民」だから、国民は国家に従えという憲法だ。

日本国民よ。それでいいの?彼らの暴走を甘く見ているのんきな国民よ!
きっと戦前の日本人もこうだったのだろうか。

ある日突然、菅官房長官がこう発表するよ。
「本日未明、安倍総理大臣が緊急事態を宣言し、中国と交戦状態に入りました」と。
悪夢以外の何物でもない。

何も大げさではない。軍靴の音は一歩ずつ一歩ずつ聞こえてる。だから日ごろからそちらの方向に一歩も近寄らない心構えが必要なのだ。

平和は軍事力では保てない。外交努力と民間交流だ。平和憲法の下、それをやってきたではないか、戦後日本は。

アヴェ・マリア・コンサート~禁教時代にも受け継がれた歌と祈り

 いよいよ7/24(日)14時から、カトリック浦上教会で「アヴェ・マリア・コンサート」を開演する。
 このコンサートは、祈りがそのまま歌となり「西洋音楽の母」と呼ばれた「グレゴリオ聖歌」、世界の作曲家たちの聖歌、そしてその聖歌が歌えず「オラショ」となるしかなかった長崎のキリシタン史などが見えてくる画期的なコンサートである。
アヴェマリアコンサートa1 profile.jpg 

 今年1月、西高の後輩でFB友達の吉川友理さん(ソプラノ)のコンサートを旧香港上海銀行記念館に聴きにいって素晴らしかったので、今年予定されていた「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の世界遺産登録記念として市民グループ「アジェンダNOVAながさき」で主催しようと決めた。友理さんも快く承諾してくれた。

 しかし2月、世界遺産登録はイコモスの中間報告で、キリスト教の「禁教と弾圧」の時代に焦点を当てて再申請することになったため、「長崎のキリシタン史」と「世界のキリスト教音楽」にスポットを当てながら、歌と祈りによって世界遺産の価値を発信できればと内容を詰めていった。
 
 西洋音楽は、グレゴリオ聖歌を起源とするキリスト教音楽なしには語れない。世界ではこのキリスト教音楽から様々に発展していった。一方、日本ではその時代キリスト教は禁じられ、長崎で花咲こうとしていたキリスト教音楽は、途絶え、その祈りの言葉だけがオラショとなっていったのである。

 長崎のキリシタン史と音楽

 出演者に、友理さんの妹で同じくソプラノの吉川友貴さんを加え、西洋音楽の起源となった聖歌や、世界の作曲家9人による「アヴェ・マリア」を歌っていただく。
 また、長崎カトリック合唱団に本物のミサ曲やグレゴリオ聖歌を、外海の現役のかくれキリシタンの帳方村上茂則さんにオラショを唱えていただく。なぜこの「オラショ」が生まれたのか、コンサートを聴きに来ていただいた方には分かるであろう。
 主の祈り


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リンデン

Author:リンデン
リンデンの長崎ケルンへようこそ!

長崎には「墓・坂・馬鹿」が多いと揶揄されますが、「先人(歴史・文化)を敬うハカ・人の苦労(斜面都市・殉教・被爆)を知るサカ・自らを捨て人に尽くす(まつり・地域活動・平和運動)バカ」のことだと解釈し、このハカサカバカ精神で行動しながら、ケルン(記事)を積んでいます。

あなたもよかったら、ケルン(コメント)を積んでいってくださいね。

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