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長崎市立市民病院 感謝の集い

思い起こせば昭和63年。僕は昭和天皇と時を同じくして千葉で下血し床に伏した。

マスコミが連日伝える天皇の血圧、脈拍などを自分のそれと比較したものだ。

そしてこの病院に転院し、僕はここで命を拾った。

長崎港を眺めながら長崎に恩返しをしようと決意したのは7階の個室だったか。

Uターンを決め、長崎第三の放送局の開局に奔走した。

局の仕事に限界を感じ、市民活動を始めたのが10年前。

少しでも恩返しになったのだろうか。

このロビーで「長崎みなとメディカル合唱団」の皆さんと「時代」を歌いながら、ぐっとこみあげてくるものがあった。

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▲僕が入院したのは、この確か7Fの海側の個室だった。昭和63年12月から年を越し、昭和64年を迎え、そして平成になった。この病室からの長崎港の眺めは忘れられない。

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▲ミーティング中?の看護婦さんたち 皆さん優しかった

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▲当時の受付

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▲ここで治療や診察をうけたおそらく何百万人ともなる患者たちを代表して僕が感謝の意を表します。
本当にありがとうございました。

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▲兼松院長のあいさつ

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▲原さとみさんが指導されている「長崎みなとメディカル合唱団」と一緒に「時代」を歌った

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▲あのころはこの出島道路もなかった・・・

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▲2014.2.24 そのネーミングで話題をさらった「長崎みなとメディカルセンター 市民病院」がいよいよ開院する
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テーマ : 日記
ジャンル : 日記

僕の存在と縁



来月、68回目の長崎原爆の日が訪れます。

この日が来るころになると、いつも感じることがあります。

僕自身の縁のことです。


1945年8月9日、僕の母は三菱兵器茂里町工場で被爆しました。

爆心地から1.2kmです。

この距離はあのプルトニウム型原爆の放射線を直接浴びたら100%死ぬ距離です。

母は学徒動員で駆り出され、その工場で魚雷の信管を作っていました。

その日は、その実験室からたまたま外出して建物の影にいたので、爆風でふっ飛ばされながらも奇跡的に助かりました。

その後、井樋口の防空壕に逃げ込んだ後、どう市内を彷徨ったかは思い出せず、実家があった桜馬場にたどり着いたのは午後3時過ぎだったといいます。

母は今でも健在です。82歳です。

僕は昭和30年生まれ。母が25歳の時の子供です。僕を産むとき出血がひどく、死線を彷徨ったそうです。

それなので、母は「あたしゃ、2度死に損ねた」と語ります。

ということは、僕の存在そのものが2度の奇跡のおかげなのです。

僕は、諏訪神社の神宮寺である浄土宗・地福院で産湯を使い、その後、浦上に引っ越して、純心幼稚園に通いながら「燔祭のマリア」に毎日手を合せました。


勿論そんなことは全く意識しないまま、高校を卒業した後、県外を転々としました。

しかし千葉の製鉄所で粉塵まみれになっていた、30歳を過ぎたある日、突然原因不明の下血で入院し、多量の輸血をしました。

その2年後にも多量下血し再入院。

そのころ昭和天皇が倒れ、毎日その容体がメディアで流れましたが、僕はベットの上で自分の容体と重ねていました。

その2度の輸血が原因でその後C型肝炎になるのですが、今度は僕自身が死に損ねた番でした。


僕は今、唯一浦上にある放送局に勤務しています。母が被爆した地点が目の前にある放送局です。

ここは三菱製鋼があった土地、いわゆる三菱の起源といもいうべき由緒ある土地で、三菱は民間には売らないと言っていたのを、市が斡旋して公開ホールを作るという条件で作りました。

当時のM市長から斡旋役を任じられたのが僕の父です。

その縁もあって、昭和天皇が亡くなり、年号が平成と変わった年の終戦の日の翌日に入社し、この局の設立、開局にたずさわりました。

最初の仕事は社員採用試験でした。

あれから24年が経とうとしています。

その間、様々なことがありました。入退院も繰り返しました。

書きたいことも書きたくないこともすべて飲みこんで、それらのことは書かないでおきましょう。

(その話が一番面白いのでしょうが・・・)


そして、いつしか導かれるように市民活動に身を置き、長崎に縁の深い方々と交わりながら、長崎の歴史を辿り、長崎ならではのコンサートやさるく、ツアー、講話などのイベントを企画し、番組を作り、文化振興、世界遺産推進活動、平和運動を続けています。

次の大きい企画もあります。今は公表できませんが、後世に残るものを立ち上げたいと思っています。


僕は人生の岐路で迷った時、必ず訪れる僕だけの聖地があります。(秘密です)

あの時、あそこで心に決めたことを実現するために、僕はあるのだといつも思っています。

母の奇跡と、僕の縁を無駄にしないために。


PS.上の動画は、長崎のシンガーソングライター果里(かりん)さんが、ガダルカナルで戦死した叔父さんを思って書いた曲です。来週の火曜日(7/16)の「スーパーJチャンネルながさき」に生出演して歌っていただきます。

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ジャンル : 日記

56年を経て今・・・

1954年、僕の両親は、長崎三社の一つ伊勢宮で結婚式を上げ、諏訪神社の下にあった浄土宗法壽山地福院の一室を借り、新婚生活を送った。この地福院は諏訪神社と同じ金比羅山の神宮寺系列だという。

そして翌年1955年10月6日、当時八幡町にあった高木産婦人科で男子を出産した。難産だった。
取り上げた高木院長は長崎くんちの前夜祭で酔っていたらしい。

その年の踊町は、丸山町(本踊)・今博多町(本踊)・今魚町(川船)・古町(本踊)・江戸町(兵隊はやし)・諏訪町(蛇踊)である。

その男の子は、おそらく母親の胎内で寺の木魚や念仏を聞きながら大きくなり、この世にオギャーと生まれ出た時は、しゃぎりの音を聞き、そして酒の匂いを嗅いだはずだ。

当時の写真をご紹介しよう。これだ。

その後1年余りで浦上へ引っ越した。

市役所勤めだった父が昭和町(その後、大手町と町名変更)にできた問山(市営)住宅の管理人を兼ね、念願の我が家を求めたのだ。

それから高校を出るまでその地で育った。

以来、いろんなことがあった。本当にいろんなことが・・・

そして56年経った。

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▲この日、誕生を祝ってくれてるような秋空が広がった。

その日の午前中は長崎くんちの放送席の設営を手伝い、午後からは先日企画したパイプオルガンコンサートのお礼に浦上天主堂の小島神父を訪ねた。

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▲諏訪神社の踊り馬場。今年は異常人気。桟敷券は6/7の発売日に即日完売した。桟敷委員会の方がこの仕事を30年やってるがこんなことは初めてだとおっしゃった。この写真の真ん中で僕は産まれた。

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▲殉教と被爆のシンボル、浦上天主堂。大勢の修学旅行生が集まっていた。高校時代はこの裏に住む友人と駄弁りながら、よく通った場所だ。

長崎に生まれ、浦上で育った僕は、長崎で命を救われ、浦上に戻って来て今、長崎と浦上で仕事をしている。

少しは恩返しができているのだろうか・・・

テーマ : 長崎
ジャンル : 地域情報

98.幸福から奈落へ

仕事がようやく軌道に乗った。

新社屋の内部もすべてが整い、社内の規定や手続きも順調に運用され、社員も日々の仕事に追われていた。総務として充実感があった。

1990(平成2)年10月には、35年続いた独身時代に別れを告げ、親戚や友人や会社の人を大勢招いて、盛大な披露宴を開かせていただいた。

翌春には大借金を敢行し、山腹のわずかばかりの土地に家を建てた。ちっぽけな家だったが嬉しかった。

その秋には待望の息子も生まれた。病院の新生児室で小さい手足を動かしているわが子を見て、心の底から湧き上がるような感動を味わった。こんな感動は生まれて初めてだった。

三回り下の未年。飛べなかった自分の代わりに、「羽」をつけた名前を付けた。

平成元年に長崎にUターンして、全くゼロからのスタートだったが、わずか2年の間に、新しい仕事を始め、結婚をし、家を建て、子を持ち、わが人生にとって言わば「平成維新」のような大転換を果たした。

すべてが順風満帆。そして幸福の絶頂だった。


しかし、人生はそんなに甘くはない。突然の悲劇がわが身を襲った。

再下血。

1993(平成5)年10月のことであった。折りしも、その日は息子の2歳の誕生日だった。

市民病院に緊急入院。

30歳を過ぎて、千葉の君津で下血し入院したときから数えて三度目であった。


それまで原因が分からなかったが、三度目の正直。終に病名がついた。それも恐ろしい病名が・・・

その名はクローン病。主として口腔から肛門までの消化管全域に、非連続性の炎症および潰瘍を起こす原因不明の疾患だという。

そして何と、この病気は厚生労働省指定の特定疾患(難病)であった!

難病?!?この僕が??信じられなかった。晴天の霹靂とはこのことだ。

その関連の本をむさぼり読んだ。読めば読むほど暗くなった。

症状は個人差が大きく、腹痛、下痢、体重減少、さまざまな症状がでるという。ひどい人は食事を一切取れない。寝ている間に鼻から管で高栄養剤を注入するらしい。

さすがに落ち込んだ。食事が一切摂れない??これからずっと??一生??ウソだろ??信じたくなかった。

その年の年末まで65日間の入院を強いられた。一切食事は摂れない。IVH(高カロリー輸液)を肩から入れた。後半には鼻からチューブを入れる苦しい訓練も始めた。

どんなときでも前向きに生きてきたさすがの僕も、初めて人生に悲観した。

わが子が見舞いに来て、点滴台に乗って楽しく遊んでいる姿が、何ともつらく、愛おしかった。

97.鉄から電波へ

開局後もずっと忙しい日々が続いた。

やることなすこと全てが新しく、緊張の中で仕事をしていく楽しみがあったが、その一方で、今までの考え方を根底から変えなければならない場面も多かった。

何せ、それまでは重厚長大の代表である製鉄所の現場でヘルメットをかぶって3Kな仕事をしていたわけだが、突然、軽薄短小の代表のようなテレビ局のデスクワークに変わったわけだから。

体を張って鉄を作る仕事から、空気を売るような仕事へ。ハードからソフトへ。180度の転換だった。


まず、時間に値段をつけることに馴染めない。30秒でン万円?なぜ?原価は?

お金をいただいて放送するかと思うと、こちらから取材に行けばタダ。値段の付け方も納得がいかない。そんなんアリ??

営業も代理店もいい加減に見えた。そんな仕事を製鉄所でしていたら、確実に人が死ぬ。

地元業者の生温さにも唖然とした。見積を頼んでも期日までに持ってこない。電話すると忘れてましたという。あきれた。

そんな業者とは以後一切取引すまいと思っても、他に頼む所がなかった。
それどころか、取引相手がスポンサーだと逆に気を遣った。

狭い長崎。人と人がもたれあって生活していた。当時は許せなかった。

とにかく、カルチャーショックだった。


一方で、事件が続いた。

開局の年、1990(平成2)年11月には雲仙・普賢岳が噴火し、翌年6月3日の大火砕流につながる。系列局の記者やカメラマンが殉職した。

事故の翌日、亡くなられた記者の奥様を事故現場近くの水無川にご案内した。
土石流で埋まった荒涼とした現場を前にして、放心状態の奥様。新婚だった。

親しい方と会った途端に、わっと泣き崩れられた・・・

全国から報道陣が続々と押し寄せ、取材態勢がしかれた。記者やカメラマンらが一刻を争い、取材本部は騒然となった。

そこには製鉄所とは違う厳しさがあった。

何なんだろう。この仕事は・・・

96.感動の開局プレゼント

1989年後半は、とにかく開局準備に奔走した。

開局準備事務所は、役員、総務、業務、営業、報道制作、技術が1フロアにひしめき合い、騒然とした中で各人が仕事に追われていた。

新社屋に移ると3フロアに分かれ、少しずつお互いの顔が見えなくなっていっただけに、あの1フロア時代が懐かしい。

役員は外に出ては、監督官庁である郵政省、キー局や系列局、行政や有力企業、地元有力者、広告主や広告代理店、ありとあらゆる関係先にあいさつ回りをし、社に戻っては、取締役会や株主総会、社内会議に採用試験の面接と坐る暇もない。

業務は、放送のためのデータ作り。放送用語を一から覚えることから始め、あとはEDPS(放送運行システム)というコンピューター端末に向って、番組の編成データ、運行データ、スポンサーや代理店や売り上げなどの業務データをひたすら入力する作業に追われた。一日の放送はすべてこのEDPSが自動運行して放送されていくから、1つでも入力ミスがあると放送事故につながるのだ。

営業は、とにかく会社名と自分の顔を覚えてもらうために、ありとあらゆる所へあいさつ回りをし、広告を売って回った。支社ごとの料金発表会はおおきなイベントだった。

放送収入は、大まかにいえばネット収入とローカル収入で成り立っている。この収入がなければ民放はやっていけない。ネット番組を放送することでキー局からネット収入があるのだが、それ以外はすべて自分たちでスポンサーを見つけなければならない。

ローカルで売るのは、主にタイム(番組提供)とスポット(15秒や30秒のCM)だ。行政から補助金をもらっていると思われることがあるが、とんでもない。

報道制作は、早速カメラマンと取材開始。映像がないことには放送しようがない。とにかくまずはニュースを出すことが最優先だ。アナウンサーは大声で発声練習をする。同じフロアーでやるわけだから、否が応でも聞こえる。読み間違いやイントネーションが違うと、デスクの罵倒が飛ぶ。お前、今まで何勉強してきたんだっ!!

年明けの1月18日には、本島等市長が地元右翼団体の幹部に拳銃で撃たれるという事件が、事務所から目と鼻の先の市役所前で起きた。早速の実地取材となった。

技術は、稲佐山や烏帽子岳の送信所や県内各所の中継局の建設と郵政への認可申請、放送設備の仕様・見積・発注・設置・検査と、県内外を飛び回った。


そんな各局が専門にやる仕事以外、会社づくりで必要なものすべてを総務が受け持った。社員採用から電話の問い合わせ応対、就業規則や賃金規定の制定、福利厚生の手続き、社外案内文書の発送、社内文書作成などなど、列記するのが面倒くさいぐらいだ。
株券を発行することから、ゴミ箱を買うことまで、とにかく何から何までだ。

社屋内の備品の購入・レイアウトも当然総務。新社屋は1・2Fは吹き抜けの多目的ホール、2Fに喫茶兼社員レストラン、3Fが報道制作で、4Fに営業・業務・技術、5Fに総務と役員と配置計画し、その部署ごとに必要となる机や椅子や備品類・OA機器などすべてリストアップさせ、競争入札をして業者を選定した。

開局日は決まっていたが、新社屋建設が押していたため、フロアごとに引渡しを受け、業務→報道制作→営業→技術→総務・役員の順に新社屋に引っ越した。その計画を取り持つのも総務だ。製鉄所時代の工事管理がもろに役立った。

社屋はまだ建設中だったので、社員にはヘルメットをかぶらせて通勤させた。データ入力作業で徹夜して、何もないフロアーにそのまま死んだように寝た女子社員もいた。放送は初心者ではできない。当然キー局や系列局から指導や応援にきていただいた。

社員の経歴はまちまち。給料は当然低く抑えたため、ほとんどの社員が前職から激減、中には3分の1になった者もいた。

しかし僕は、本当に給料をもらっていいのだろうかと思うほど充実した毎日を過ごした。放送局の開局に立ち会えるなんて、誰もが経験できることではないからだ。

長崎は第2局が1969年に開局して以降、2局時代が20年以上も続いていたから、県民の期待も否が応でも大きく、開局が近まるにつれ、どんどん高まりを見せていった。電話がひっきりなしに鳴った。


そしてついに、1990年4月1日早朝、マスターでお祓いをした後、創業の社長が開局のボタンを押した。

軽快なBGMとともに、会社のロゴマークがTV画面に映し出され「JOXI-TV、こちらはNC○長崎文○放送です」と女子アナの声が県内に流れた。

感動の一瞬。この瞬間は一生忘れることはないだろう。


実は僕にとって、感動はそれだけではなかった。

その開局の前日、僕の家に大きな包みが届いた。開けてみると、何とそれは8箇月前にグラナダで発注したギターだったのだ。

ラベルに、Luis Santiago Hernandez と書かれてあり、彼を思い出して目頭が熱くなった。彼が「開局おめでとう!」とスペイン語で言ってくれているようだった。

こんなこともあるのだろうか・・・あまりのタイミングに言葉がなかった。
僕への開局プレゼントとして、これ以上のものはなかった。

95.ふるさとへ

このところ自分史というより、旅行記になってしまっていたが、それだけあの欧州旅行は自分の人生にとって大きな意味を持っていた。
ふるさと長崎に戻ってきたところから話を続けるが、現在につながっているので具体的には書きづらい。



1989/8/13、長崎はお盆を迎えていた。

斜面に広がるあちこちの墓から、やびや(ロケット花火)が「ピューーパン!」と鳴り、爆竹が「バリバリバリ・・・!!」とけたたましい音を立てていた。街角の精霊船が最後の飾りつけを残して、ほぼ出来上がり、15日の船出を待っていた。

そこにはいつもの長崎があった。
つい昨日までいたヨーロッパとは関係がないところで長崎はそこにあった。あれは果たして夢だったのだろうかと思うほどだった。


高校卒業までこの地で育ったが、大学から社会に出て失敗し、一時舞い戻ったこともあった。今回は二度目の舞い戻りだ。

いつものように実家で両親が温かく迎えてくれた。何度も心配をかけてきたが、やっと安堵したような顔をしていた。


仕事は、今までとは180度違う仕事。それまでは製鉄所でヘルメットをかぶっていたわけだが、今回はマスコミ関係。県内で久しぶりに開局するローカルの開局準備事務所の総務を任せられた。重厚長大から軽薄短小へ。文化の違いに戸惑うことも多かった。

8/16付の入社となった。8/16と言えば、地獄の釜が開くとき。会社へ送られた地獄からの使者だったのかも知れない。

入社早々、社員の採用試験、就業規則や賃金規定などの規程集の制定、福利厚生制度の整備、新社屋のレイアウト計画から備品購入、新しく会社を興すために必要な様々な社内文書、社外文書の作成など、とにかくゼロから会社を興す仕事だから、めちゃくちゃに忙しい日々が続いた。

しかし、楽しかった。県民の期待も大きかった。


僕は正直、自分の命を救ってくれた長崎に恩返しをしたいと思っていた。
原因不明の下血の原因を突き止めてくれた長崎の医学に感謝していた。
あのまま君津にいたら、不安を抱えながら激務を続け、いつしか再発して死んでいたかもしれなかった。

人の生き死になんて結局のところ分からないが、少なくとも自分の夢を抱いて外に飛び出しては夢破れ、ふるさとへ舞い戻る自分を省みながら、自分の夢のためではなく、他人のため、ふるさとのために働く喜びが芽生えているのは確かだった。

それにしても、ながさきは、やさしいまちだった。

94.憧れの欧州旅行(14)~旅の終わり~

1989/8/12、いよいよこの旅も終わりに近づいた。

今回は英語と音楽をテーマにした旅だったから、この音楽の都ウィーンで締めくくるのは最適の設定だ。

音楽の都と呼ばれるのは、モーツァルトを始めとする数々の有名な作曲家や演奏家が活躍した街だからだ。ベートーヴェン、ハイドン、ブラームス、ヨハン・シュトラウス、シューベルトなど数え上げればきりがない。

それぞれの記念館にも行きたかったのだが、ウィーンはハプスブルグ家の帝都として発展し、すばらしい遺産が残されている。午前中はそれらの遺産を巡ることにした。

旧市街を取り囲むリング(環状道路)周辺は建築物の博物館、「ハプスブルク王朝のショーウインドー」と称される。

朝からホテルを出て、路面電車1番で右回りに回った。ギリシャ神殿風の国会議事堂、ウィーン市庁舎(rathaus)、ウィーン大学、ヴォティーフ教会コンツェルトハウス楽友協会(ムジークフェライン)の二大コンサートホール、キュンストラーハウス、国立オペラ座など次から次に美しい建物が並んでいる。

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 ▲国会議事堂(「パラス・アテナの泉」がある)像は英知の女神・アテナ


次に「ハプスブルク王朝の夏の離宮」であるシェーンブルン宮殿へ向かった。オペラ座から地下鉄U4に乗ってシェーンブルンで降りる。

駅を出るなり広大な庭園が広がる。宮殿は、バロックの巨匠、ヨハン・ベルンハルト・フィッシャー・フォン・エルラッハによって、17世紀末に建てられた宮殿建築の傑作だ。写真はココを参照されたい。

マリアーテレジア女帝やエリザベート皇后(シシィ)の暮らした豪華な部屋の数々が、見学コースとして公開されている。内部は撮影禁止だ。

6歳のモーツァルトが訪れたのはシェーンブルン宮殿の「鏡の間」。ここで演奏を終え、宮殿の床で足をすべらせて転んだモーツァルトを助け起こしてくれたのが、当時7歳のマリー・アントワネットだった。この小さな皇女に感謝する意味で「大きくなったらボクのお嫁さんにしてあげる」と言ったというエピソードはここで生まれた。

宮殿の贅を尽くした豪華さ、庭園の広大さには圧倒される。後日訪れることとなるパリのヴェルサイユ宮殿にしろ、当時の国王の経済感覚は本当に庶民とはかけ離れていたに違いない。だからこそ革命が起こったのだろうが。

庭園の小高い丘には、見晴台であるグロリエッテがあり、ここから望むウィーンの街並みが美しい。

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 ▲シェーンブルン宮殿のフランス式庭園(丘の上にグロリエッテ)↑クリックで拡大

シェーンブル宮殿とその広大な庭園は、世界最古の動物園を含め、すべてがユネスコ世界文化遺産に指定されている。

次に向かったベルヴェデーレ宮殿は、オイゲン公の夏の離宮。この構内に作曲家ブルックナーが晩年を過ごした邸宅がある。

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 ▲ベルヴェデーレ宮殿


二つの宮殿を満喫した後、午後からオペラ座の見学ツアーに参加した。総合芸術であるオペラの舞台裏を細かく見せてくれる。

ベートーベンが晩年を過ごし、遺書を書いた町、ハイリゲンシュタットにも行ってみた。地下鉄U4の北の終点だ。その遺書は「ハイリゲンシュタットの遺書」として名高い。和訳はココ

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 ▲ハイリゲンシュタットの遺書(↑クリックで拡大)


ベートーベンが作曲のために散歩した径(Beethoven gang)を歩いてみたが、残念ながら何の曲想も浮かばなかった。。。

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 ▲ベートーベン像


ハイリゲンシュタットからカーレンベルクの丘に登って、ウィーン市街を望んだ。
ドナウ川が美しい。音楽で会話している街ウィーン。ザルツブルグとは違う円熟の薫り高い街だ。

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 ▲ウィーン市街 (↑クリックでパノラマ写真)

最後は旧市街へ戻り、市立公園を散策しこの旅を締めくくった。
公園内には、生涯の多くをウィンナワルツの作曲に捧げ、「ワルツ王」と評されるウィーンの代表的作曲家ヨハン・シュトラウスの像があった。

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 ▲ヨハン・シュトラウス像


7/24に日本を旅立ち、ベルギー、イギリス、スペイン、ドイツ、オーストリアと巡った3週間の旅もついに終わった。思う存分に楽しんだ。

千葉での楽しかった思い出、つらかった汗と涙、すべてのものを昇華させ、また新天地を求めて日本へ向け飛び立った。

新天地と言っても生まれ育った長崎の地だ。何が僕を待っているのだろう。

この真っ白な雲海を見下ろしながら、悔いはなかった。
そして、一生懸命生きていけばまた何とかなるという自信だけは、しっかりと生まれていた。

きょうは8/13だ。長崎ではお盆が始まっているだろうな・・・

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     (憧れの欧州旅行は今回で終わります)

93.憧れの欧州旅行(13)~ウィーンとモーツァルト~

1989/8/11、ザルツブルグ中央駅から、オーストリア連邦鉄道(ÖBB)に乗ってウィーン西駅(Westbahnhof)へ向かった。
いよいよ今回の欧州旅行のラスト、音楽の都ウィーンだ。

ウィーンに住んだ作曲家、特にモーツァルトの足跡を辿りながら、街を紹介したい。
このサイト「モーツァルトを知るためのウィーンお散歩ガイド」が参考になる。

  
 ▲ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
  (Wolfgang Amadeus Mozart)1756~91
  (c)ANTO/Gesellschaft der Musikfreunde



1756年1月27日にザルツブルクに生まれたモーツァルトは旅の果て、雇われていたザルツブルグ大司教と決別し、25歳から亡くなる35歳までこのウィーンで過ごし、数々の名曲を作曲した。

30歳で作曲した『フィガロの結婚』もその一つ。この曲を作曲したフィガロハウス(現モーツァルトハウス)へ行った。『アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク』もここで作曲された。ウィーンのシンボルであるシュテファン寺院のすぐそばだ。

以下、この地図のお散歩コースの逆を辿った。

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 ▲フィガロハウス(現モーツァルトハウス)


ここからケルントナー通りを南下して行くと、左側にシュテッフルという大きなデパートが見える。ここがモーツァルトの最後の家で、今は裏口に銘板だけが残っている。ここで彼は数多くのヒット曲を生み出した。『魔笛』『クラリネット協奏曲KV622』、『レクイエム KV626』、『アヴェ・ヴェルム・コルプス』など。

『レクイエム』の作曲の途中でリューマチ熱にかかり、とうとう「♪ラクリモサ」の一部を歌いながら自分が完成できないことを知り、弟子(ジュースマイヤー)に残りの指示を与え、天才はこの世を去った。そして人知れず共同墓地に埋葬されたという。1791年(35歳)12月のことであった。

映画「アマデウス」を思い出すなぁ~[:大泣き:]

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 ▲シュテッフル(モーツァルトはここで息を引き取った)


シュテッフルからもう少し南下すると右手にウィーン国立オペラ座がみえてくる。
ミラノ、パリと共にヨーロッパ三大オペラ劇場に名を連ねる歌劇場だ。
1869年5月、モーツァルトの作曲した『ドン・ジョヴァンニ』でこけら落としが行われた。

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 ▲ウィーン国立オペラ座(staatsoper)


オペラ座前のリンク(環状道路)を東に歩くと、きれいな花が咲き乱れるブルグ庭園がある。そこにあるモーツァルト像は観光スポットだ。

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 ▲ブルグ庭園のモーツァルト像


この庭園の東側に王宮(ホーフブルク)がある。ハプスブルグ家の皇室だ。ここは見どころ満載。この王宮礼拝堂では、日曜日のミサでウィーン少年合唱団が美しい歌声を披露する。モーツァルト生誕250周年祭では、シュテファン寺院でウィーン少年合唱団による『戴冠ミサ』が歌われて生中継された記憶も新しい。


この日はリングを逆に戻り、オペラ座を通り過ぎた右手にあるコンツェルトハウスでのコンサートを聴いた。モーツァルト当時の服装で演奏され、楽しいコンサートだった。

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▲コンツェルトハウスでのコンサート (↑クリックで拡大)



モーツァルトはこのウィーンでその音楽の才能を一気に花咲かせ、そして散っていった。250年も経って後世の人々に感動を伝え続けていけるものが、この音楽以外に何かあるだろうか・・・音楽、music、musik、musica・・・

いよいよ、旅の終わりが近づいた。

92.憧れの欧州旅行(12)~サウンド・オブ・ミュージック~

1989/8/10日、映画「サウンド・オブ・ミュージック」とその主演女優ジュリー・アンドリュースの大ファンである僕は、迷わず「サウンド・オブ・ミュージック ツアー」に参加した。

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 ♪The hills are alive with the Sound of Music.
    With songs they have sung for a thousand years.


嬉しいことに以下に示すこの映画の名シーンの撮影スポットを次々に回ってくれるのだ。
ツアー中に流れるBGMは勿論、サウンド・オブ・ミュージックからの名ナンバーだ。

これを実施しているのがパノラマツアーだ。

ミラベル宮殿:マリアと子供たちが歌う『ドレミの歌』のフィナーレの舞台
 ♪Doe, a deer, a female deer、Ray, a drop of golden sun


フローンブルグ宮殿:トラップ大佐の家(子供たちがボートでおぼれる)
 ♪ Edleweiss edleweiss every morning you greet me.

ヘルブルン宮殿:ロルフとリーズルが『もうすぐ17歳』を歌って踊る
 ♪ I am sixteen,going on seventeen →クリック
  チャーミアン・カー(リーズル役)のHPはここ


ノンベルク尼僧院:マリアがいた修道院
 ♪How do you solve a problem like Maria?
  実際の、マリア・フォン・トラップのストーリーはここ

 
◆ザンクト・ギルケン:サンクトウォルフガング湖と教会のカットが使われた。

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▲ザンクト・ギルケン(モーツァルトの母が生まれた町)


◆ザンクト・ウォルフガング:教会のカットと登山列車のシーンを撮影

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 ▲休憩時間に乗ったグラスボブスレー(気もちよかったぁ~~♪)


モントゼー:大佐とマリアが結婚式を挙げたシュティフト・ブファール教会がある
 ▲シュティフト・ブファール教会

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 ▲教会の中央祭壇(彫刻がすばらしい。写真をクリック!)



はるか遠くにアルプスの山並みを見ながら、思いっきり澄み切った空気を吸った。
何か、勇気が出てきた。何だろう。このこみ上げて来るものは・・・

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▲Climb every mountain, ford every stream.
    Follow every rainbow till you find your dream.



ザルツカンマーグートからザルツブルグへ戻り、ツアーを終えた後、ホーエンザルツブルグ城へケーブルカーで登った。

ザルツブルグは、世界一美しく、素敵な、優しい街だ。
イギリスの歴史、スペインの土臭さ、ドイツのロマンとはまた違う。
この街には、思わず歌いだしたくなるような空気が満ち溢れていた。

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▲ホーエンザルツブルグ城から見下ろすザルツブルグ市街

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リンデン

Author:リンデン
リンデンの長崎ケルンへようこそ!

長崎には「墓・坂・馬鹿」が多いと揶揄されますが、「先人(歴史・文化)を敬うハカ・人の苦労(斜面都市・殉教・被爆)を知るサカ・自らを捨て人に尽くす(まつり・地域活動・平和運動)バカ」のことだと解釈し、このハカサカバカ精神で行動しながら、ケルン(記事)を積んでいます。

あなたもよかったら、ケルン(コメント)を積んでいってくださいね。

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