江戸日帰りはつらいよ

長崎-東京の日帰りは、やるもんじゃない。何度やっても疲れる[:泣き:]。
翌日が大村への定期検診だったので、やむを得ず日帰りを敢行。
(ちなみにシーボルトの江戸参府は143日かかったという)

13:20~16:30の3時間ちょっとのセミナー[:メモ:]に参加したのだが、
自宅を出たのが朝8:00[:予定:]
最寄のバス停から長崎駅まで30分[:バス:]
長崎駅から空港までリムジンで45分[:バス:]
空港から羽田まで飛行機で1時間40分[:ヒヨコ:]
羽田から目的地の紀尾井町まで地下鉄を乗り継いだり、歩いたりで
1時間30分もかかり、結局少し遅れてしまった。

自宅から目的地までドアツードアで5時間30分もかかったってことは、
正味の移動時間が計4時間25分だから、待合時間が1時間5分もあったってことだ。
おまけにお昼はコンビニで買ったパン[:ハンバーガー:]をかじりながらの移動だった。

セミナーが終わってからもトンボ帰り。
空港で高い夕食を食べて、19:05発の最終便で長崎へ。
自宅に帰りついたのは夜22:30[:予定:]であった。

別に疲れることは何もしていないのだが、それぞれの交通機関でずっと体を揺られ続けるのが疲れるらしい。自宅に帰り着いたとき、どっと疲れが押し寄せ、死んだように寝てしまった[:寝る:]。

写真左=雪がない富士山(夏だから?温暖化?)。中=浜松町駅で(正面は文化放送)。右=羽田空港(屋上デッキから)。

天下分け目の闘い

きょうは参議院選挙の投票日。
注目の長崎選挙区は、ご覧の三人。

おそらく自民党公認「こみね忠敏」候補と民主党公認「大久保ゆきしげ」候補との一騎打ち。
小嶺氏はご存知、国見高校をサッカーで6度日本一にした名監督だ。
あくまで「サッカーで」だ。

しかし数日前に、小嶺氏のポスターが差し換わった。
真正面を向いていたのが、横向きに。
何故だろう??自民党も焦っているのか・・・

自民党vs民主党。天下分け目の闘い。さて選挙結果は??

■確定得票
当 大久保潔重 352,953
  小嶺 忠敏 331,147
  渕瀬 栄子  35,837

やはり・・・

校舎お別れ見学会

中学のときの校舎が耐震補強のため39年ぶりに改修されるらしい。

柱だけは残すが、大幅な改修のため、ほとんど面影がなくなると聞いて、
この校舎が出来たときの一期生の僕たちは「お別れ見学会」を企画した。

たまたま参議院選挙の投票日に重なったが、同級生のMLで呼びかけたら7人が集まった。
うだるような暑さの中、当時の記憶を辿りながら、校舎内を隅々までさるいた。
ここであれしたね、これしたね、ここはこうだった、ああだった、想い出は尽きない。
さしずめ「男女7人夏物語」ってところ??

知る人ぞ知る「理科室事件」を生んだトイレ(誰も知らない?)
当時、最新の設備だったLL教室(ソニーのオープンリールのデッキが一人1台ずつあった)
合唱コンクールのときに各教室に配られた15台のオルガン(まだ健在!)
ゴミを1階まで落とすダストシューター(塞がれている)
当時は移動教室だったので各教室ごとにあったカバン棚(それに伴いロッカー室がなくなっている)
みんなが腰掛けるから凹んでしまったヒーター。などなど。

さようなら。ありがとう。

僕たちが「青春の流れ」と名付けた中庭の噴水は残るようだ。
これだけは、永遠に流れを止めないで欲しい。

特別な一日

今朝も、愛犬ウインディとの散歩で始まった一日。
でも、きょうは特別な一日となった。

きょうは、大事な方とお会いしたのだ。大学のクラブの先輩だ。
茨城からご実家の福岡に帰省された際に、わざわざ長崎まで足を延ばしていただいたのだ。

最近、そのクラブのOBのML上で、楽しい会話をさせていただいている縁だ。
現役のときはお互いに覚えがない。

当初、原爆資料館を中心とした浦上地区のいわゆる「祈りのゾーン」をさるいた後、南山手のグラバー園でもご案内しようと張り切っていたのだが、この暑さ。おそらく最高気温は30℃を超えていたろう。

お互いに「これじゃ、さるけないよね」ということで、昼から原爆資料館を見た後、夕方まで、その喫茶コーナーでずっと駄弁っていた。
僕としては、伯父の被爆体験ビデオを見ていただいただけで充分だった。

昔のクラブの話。今の趣味や活動の話。お互い歩んできた人生のほんの一コマの紹介。
同じクラブだったから、すぐに話が通じる楽しさ。あっという間だったけど、充実したひとときだった。

「来れる時に来ないとね。そのときにしかできないことってあるからね。」
さりげないけど、含蓄のある言葉を交わし、新地でちゃんぽんを食べ、長崎駅で別れた。

また、どっかでお会いしましょう。人生の楽しみが一つ増えた。

※写真右は、お見送りした後、駅前高架広場からの見上げた稲佐山の夕景

長崎みなとまつり

7/28(土)、友人から誘われていた「花火を見ようじゃない会」に参加してきた。
場所は、長崎県美術館のすぐ横の出島交流会館ビルの8階だから、最高のポジション。
花火が真正面に上がる。

ながさきみなとまつりの花火は、きょうが2000発、明日は3000発打ち上がるという。
久しぶりに夏の花火を満喫した。

窓が開かなくて、ガラス越しのショットで上手く撮れなかったが、如何??
バックは女神大橋

48.拾う神

「高卒だ・・・」
電話ボックスを出て、フラフラと教養部キャンパスへ向かった。

『何か手立てはないものか・・』『誰かに相談できないだろうか・・』当て所もなく教養部の館内を彷徨った。
たまたま通りかかった部屋の扉が開いていて、中に何か覚えがある顔を見かけた。

「あっ、あの方は1年生のときの担任の先生だ!」
それも数学の教授だった。本当に偶然だった。

すぐにその部屋に飛び込んで、名乗り、かくかくしかじか、いきさつを述べ、何とかしていただけないかと相談を持ちかけた。
もうここまで来たら、恥も外聞もありゃしない。

突然の訪問者。そして突然の申し出。当然のごとく教授の顔は曇った。
何て身勝手な学生なんだろうと100%思われたに違いない。どう思われようが知ったこっちゃない。

僕の顔にも相当悲壮感が漂っていたのだろう。
最後に「う~ん、じゃ、ちょっと調べてみましょうか・・」
昔の僕の授業記録などを調べてくれた。

「あなたは私の授業にほとんど出席してなかったですね・・」
(そりゃ、そうだ。それだけは悲しいかな自信を持って言える)

「ん?・・・あなた、私の前期の試験を受けてませんね・・」
(そんなの覚えてもいない)

「じゃ、しょうがない。そのときの再試験ということで、特別に試験を受けさせてあげましょう」
「えっ!!本当ですか?!」

全くずぼらをして試験すら受けてなかったのが、幸い?したのだ。もし受けていたら完全にアウトだった。
教授の顔に冗談でなく、後光が射したように見えた。


しかし、それから地獄の日々が始まった。
再試に落ち、再々試に落ち、再々々試に落ちた。
そりゃそうだろう。1年間全く授業を受けていなかった大学の数学を、一からテキストだけで独学して、試験を受けるわけだ。

その後、レポート提出。再レポート提出。再々レポート提出。提出するたびにこっぴどく叱られた。
「これをゼロで割るのか?君は数学の基本が分かっていない!!」

でも、全く苦にならなかった。だって元々なかったチャンスをいただいているのだ。
そして、最後の最後に、念願の単位をいただいた。

あの教授がいらっしゃらなければ、僕は全く違った人生を歩んでいたのは間違いない。僕が自ら捨てた運を、拾ってくださった。
あの方は今、どうされているのだろう。感謝してもしきれない。

夏、正念場

昨日(7/25)で治療12週目。ゴールまで4分の1のところまできた。

今までのところ順調。
白血球(好中球)が少なくなると、インターフェロンの量を180mgから90mgに減らさねばならないが(あんまり少なくなると治療中止!)、今まで2回減らすも、その後すぐ好中球の値は戻り、規定の180mgを打ち続けている。

副作用は、さすがに少し疲労感がでてきたか・・・[:汗:]。お腹も少しゆるめだが、食欲はあり、一生懸命食べる努力はしている。

この治療がなくとも毎年、夏場[:晴れ:]は体調をくずし、体重も減らしてきたから、要注意。
さ、これからが正念場だ[:!:]

47.留年と放校

とにかく自由奔放な日々を送った教養部の1年半。

好きな一般教養科目の単位は早々と取得したのだが、必須単位の数学・物理化学・ドイツ語などの単位が足りず、当然のごとく留年が決定した。
特に理系の必須科目が全くつまらなくて授業を受けなかったのだ。高2のときに進路に悩んだことが今更ながら思い出された。

ひとつには、浪人して入ってくる友人も多い中、一応現役で入ったから、長い人生の中の1年ぐらい、思い切り好きなことをするのも有意義なことではないかという勝手な解釈(甘え)があったことも否めない。
その思いっきり好きなことが、ほとんど麻雀だったというのはいかがなものか・・この時期に海外留学でもしとけば・・と思ったのは当然、後の祭り。

こんな考えだから、留年中も全くいつもの怠惰な生活は変わらず、というより益々その生活は荒れていき、不足単位はいつまで経っても減らなかった。
そして1年後、ついに再留年が決まってしまった。

両親に報告すると、さすがに母親は「遊ばせるために大学にやったんじゃない!」と嘆き悲しみ、父親は「仕送りは止める」ときっぱりと言った。当然のことだ。最初に留年したときに「2度としない」と誓っただけに、全く返す言葉はなく、ただうつむくだけであった。

どん底の2留生活が始まった。

さすがに落ち込んだ。俺は一体、何をしてるのだろう。そして何をしたいのだろう・・
あの高校時代の人生の悩みが甦った。内向的な人間を捨て、多彩なこの世の眺めを楽しんでやろうと決意したのに、いざ自由な日々を獲得し、やりたい事をやっても、何故か満たされない虚しい日々が続くばかりなのだ。

何て俺は弱いのだろう。自己嫌悪に陥り、自らを追い込んだ。悩む一方で、享楽的な毎日に溺れた。
バイトでなけなしの生活費を稼ぎながら(母親は密かに仕送りを続けてくれた・・泣)、ギター麻雀や酒やタバコに浸り、同じように2留をした友人Mと夜な夜な飲んで、語り歌い、何とも虚しいため息をつきながら、傷を舐めあった。
女性問題にも悩み、もともと55kgぐらいしかなかった痩せた体がどんどんやせ衰え、46kgまで落ち込み、若白髪が出だした。

大陸から玄界灘を越えてくる博多の北風は強くて寒い。体の芯から凍え、強風に煽られてふらついた。

2留しても単位が取れないと放校になるという入学後に知った現実が迫ってきた。
放校とは中退とは違う。自分の意思で退学するのではなく、大学側から貴方は大学で勉強を続ける資格がありませんと通告されること。そして高卒に戻るってことだ。さすがに、それだけは避けなければならない。

それでも懲りずに全く受講していなかった必須科目の数学の授業。これを取らないと放校が決まってしまう。さすがに試験ぐらいは受けないとと思い、最後の授業に行ってみた。
しかし教室には誰もいない・・・

あわてて、担当の先生を調べ電話した。
受話器の向こうで、北九州に住むという女性の先生が「試験は前の週で終わりましたよ」と、愕然とする答え。
「えっ!!、し、知らなかったんですが、試験を受けさせてもらえませんか??」
「あなたは・・・出席日数が足りませんねぇ~」
「私、これを落とすと放校になるんです。何とかなりませんか??」
「そんなこと、知るもんですかっ!!」
「・・・」

公衆電話ボックスで受話器を置いたとき、ついに決まったと思った。「高卒だ・・」

46.博多ん屋台と学生

博多の学生にとって、屋台は深夜の社交場だ。
それほど、いつもの友人や先輩後輩と、初めて知り合った人と、コンパの帰りに、コンサートの打ち上げで、と通ったものだ。

僕の常連屋台は、東区の由緒ある筥崎宮の参道に出る「花山」だ。
夜12時を過ぎ、小腹が減ってくると必ず行きたくなってくる。網屋町に下宿していたときは、大学通りを歩いて2分の距離だったから、ほとんど毎日のように通った。

真っ白な布に「花山」の文字が書かれた暖簾をくぐると、湯気とともに客の熱気がモワッと溢れて来るのが何とも心地よい。
「えらっしゃ~い!!」。いつものマスターの景気のいい声に、その日の疲れの半分が癒される。

定番コースは、まずはビール。ほんでバラ・レバー・スナズリ・トリカワなど焼き鳥を注文。それが焼けるまでに、スジ・タマゴ・ダイコンのオデンをちょいとつなぎに。お金に余裕があるときはタン(レモン汁につけて)とか、手羽先(塩コショウだけの)をカブっと。そして最後はラーメンで締めるというのがお決まり。これで2000円+α という学生にとってはありがたい良心的な価格だ。

ラーメンだけ食べに行くというのも結構あった。あの甘めの豚骨スープが、何ともまた食べたくなるのだ。あのスープには麻薬が入ってるのではないかと思うほどだった。

果たしてその社交場で何を語り合ったのだろう?・・おそらく全てである。
むかしのこと、きょうのこと、あしたのこと。政治問題から気になるあの子のことまで。他愛のない話から、真剣な議論まで。飲む相手によって様々な話題をあの場で語り合った。

昨今、博多のまちから屋台が消えるという話を聞くたび、淋しい思いがする。
自分たちのあの思い出まで消されてしまいそうな気がするからだ。

博多ん屋台は文化たい!そして博多ん屋台は青春そのもんた~い!!

45.陽水とセンチメンタル

1960年代から70年代は、日本の若者の音楽が花開いた時代だった。

言うまでもなくアメリカやヨーロッパの影響もあった訳だが、日本の従来の歌謡曲とそれが上手くミックスされ、様々な個性的で、魅力的な曲が生まれた。

そんな時代の音楽を同時進行で聴きながら、青春時代を過した。
だから現在、その頃の曲がリメイクされCMやドラマの主題曲に使われているのを聴くと、その曲ごとに様々な思い出が蘇り、本当に懐かしい。

自分の青春時代に重ね合わせて聴いてきた音楽を大まかにジャンル分けすれば、中学時代(1968-70)は歌謡曲とグループサウンズ、高校時代(1971-73)はフォークとロック、大学時代(1974-77)はニューミュージック、と言えるかも知れない。

それら一つひとつを語りだせばキリがないので、僕の大学時代に絞ってみれば、井上陽水、吉田拓郎、かぐや姫、ユーミン、小椋佳、中島みゆきの曲が好きで、よく聴いたり、ギターで弾き語りをした。

♪陽水は、「アンドレ・カンドレ」でデビュー(1969)し、「井上陽水」と名を変えて再デビュー(1972)した後、『氷の世界』でトップスター(1974)となり、「フォークの帝王」と呼ばれていた時代。

♪拓郎は、陽水、泉谷しげる、小室等らとフォーライフレコードを作り、かぐや姫と「つま恋コンサート」(1975)をやってた時代。

♪かぐや姫は、「神田川」「赤ちょうちん」(1974年)と大ヒットを飛ばしていた時代。

♪ユーミンは、「荒井由美」でデビュー(1972)し、ファーストアルバム「ひこうき雲」(1973)を発売。第一次ブームを向かえ、結婚して「松任谷由美」となった(1975)時代。

♪小椋佳は、「夢追い人」(1975) の作品で初のオリコン第1位を獲得し、2位「夢追い人」、3位「彷徨」と、TOP3に連続11週という最高記録を作った時代。

♪中島みゆきは、「時代」を歌ってポプコンでグランプリを受賞(1975)した時代だ。

一緒の下宿に入り、マンクラを途中で抜けた友人Tが、クラシックよりフォークが好きだったこともあり、彼と一緒によく歌った。特に陽水が好きだった。

九大祭で、にわかグループ「タンゼンズ」を二人で結成し、丹前を羽織って流しをした。
「お客さん、何か一曲いかがでしょうか?」「じゃ、○○の××を頼む」「あっ、それちょっと覚えてないんで、陽水でもやりましょうかね~」と結局、陽水の曲しか歌わなかったことも懐かしい。。。

今でも、カラオケに行くと、必ず陽水の曲を歌ってしまう。それだけ、己の青春の襞に溶け込んでしまっているのだ。

当時、大学紛争が下火になり、世の中がシラケ、男女の恋愛を悲しく歌う曲が増え、「センチメンタルな時代」と呼ばれた。
自分自身も何をやっても虚しさが伴い、人生に恋愛に悩み、学業に身が入らず留年をし、享楽的な生活をしていた正にセンチメンタルな時代だった。

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リンデン

Author:リンデン
リンデンの長崎ケルンへようこそ!

長崎には「墓・坂・馬鹿」が多いと揶揄されますが、「先人(歴史・文化)を敬うハカ・人の苦労(斜面都市・殉教・被爆)を知るサカ・自らを捨て人に尽くす(まつり・地域活動・平和運動)バカ」のことだと解釈し、このハカサカバカ精神で行動しながら、ケルン(記事)を積んでいます。

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