カウントダウン開始!!

ゴールが見えてくると嬉しいものだ。

きょうは39週目の治療を開始した。予定の48週まで、あと10週だ。

いや、それにしても治療期間が長い。治療費は高い。副作用はある。こんな治療、よう受けられんよ。

C型肝炎感染患者は、推定200万人とか350万人とか言われてるけど・・・どうすんだろう。


思い起こせば、肝機能が上がって、函館ビールを最後に禁酒を決意したのが2006年7月8日。

これは別にドクターストップじゃなく自主禁酒。
あまりに函館ビールが美味かったので、鹿部に供養に行ったトオルに完治を約束して禁酒したつもりだった。


あれからかれこれ2年。さてアルコール解禁日をいつに設定すっかなぁ~~。

予定でいくと48週は4月2日からの1週間。その日、注射打ってすぐ飲むわけいかんやろから、4月4日の大安の日にすっかな??

いや、薬飲み終わるのが1週間後やから、4月8日の大安日か??
だったら4月9日が大村定期検診の日やから、これに行った後がいいか。

いや薬が切れるのに1ヵ月ぐらいかかるらしいから、5月2日の大安の日??別に大安にこだわる必要はなかけど・・・

ん~~~それが問題だ・・・・勝手にしろって??(笑)

しかし、治療終了後6カ月後に検査して陰性なら完治なのだから、本当は完治日に解禁すべきところ。だとすると9月末??

ん~~~いや、そこまで待てない(笑)
よし、とりあえず4月4日を小解禁日として、本格的解禁日を完治告知の日に設定しよう。
二度飲めるし・・・(^^)v

ってことで、カウントダウン開始!!小解禁日まであと65日!!

考える市民の拠点に

今年1月5日にオープンしたばかりの長崎市立図書館を夕方のぞいてみた。

オープン初日に9000人が訪れたという話題の図書館は、やはり人が多い。子どもからご老人まで利用されているようでなんだか嬉しい。「図書貸出券」の作成にもまだ時間がかかっているが、ひところの混雑は解消しているようだ。

ICタグやパソコンの検索システムや映像関係のスタジオ・編集室などを導入した最新の図書館だが、「県庁所在地で市立図書館がないのは唯一長崎だけ」と当時図書センターに勤めていた弟から聞いたのが、もう20年以上も前の話。

新興善、勝山、磨屋小の統廃合がらみで、ようやくこの地でのオープンにこぎつけたというところか。とりあえずは関係者のご努力に感謝したい。

交通の便が悪いとか、駐車場が少ないとか不満があるかもしれない。また、過去の遺産をなぜ残さないのかという議論もあった。

だが歴史遺産がひしめき合う長崎のまちの中で新しいものをつくる難しさがあるだろう。

この市立図書館(旧新興善小)の「救護所メモリアル」、桜町小(旧勝山小)の「サント・ドミンゴ教会跡」、諏訪小(旧磨屋小)の「メモリアルホール」などのように一部に過去の遺産を残していく工夫をしていくしかないのだろう。

しかし、いくら立派なハードを作っても、利用されなければ意味がない。ましてや県や市の財政は破綻寸前だと聞く。

幸いこのところ作られた県美歴博は順調に市民が足を運んでいるようだ。
この図書館も、市民にずっと親しまれ、「考える市民の拠点」になっていって欲しいと思う。

帰りに通った県庁のランタンオブジェが綺麗だった。

長崎交響楽団のコンサート

1/26(土)、長崎交響楽団の第71回定期演奏会をブリックホールで聴いて来た。

プログラムは、
 ベートーベン/エグモント序曲 op.84
 モーツァルト/ピアノ協奏曲第23番 イ長調 K.488
 ブラームス/交響曲第2番 ニ長調 op.73

それぞれの作曲家の個性が引き立つ選曲だ。

指揮は海外で活躍している横島勝人氏、ピアノソロは東京芸大卒の楠本緑氏だ。楠本さんは昨年のながさき音楽祭2007にも出演されていた。

長響は、ベートーベンの重厚さ、モーツァルトの軽快さ、ブラームスの繊細さを上手く弾き分けていたように思う。

聴衆も良く入っていて、ブラームスには最後まで拍手が鳴り止まなかった。
楽章ごとにも拍手が入っていたが・・・

10月に予定されているというオペラ「蝶々夫人」のフル演奏が楽しみだ。

80.別れをかみしめて

長崎から君津へ戻って、上司に会社を辞める意思を伝えた。

2度入院をしたことを知る上司は、労いの言葉とともにそれがいいと言ってくれた。しかし、上層部にその話が上がると大騒ぎになった。

支社長から呼び出され、長崎支店へ転勤させるから、そこで体調を調えてから、また復帰して欲しいと説得された。嬉しかったが、首は縦に振らなかった。もう決めたことだ。本社の役員会まで上がって問題にしてくれたらしいが、嬉しくはあったが、決意が揺らぐわけではなかった。

それよりも、一緒に工場を守ってきた化学整備課や協力会社の現場の人たちに申し訳ないと思った。深夜遅くに「突発だ」と電話をかけては危険な現場へ呼び出した人たち。彼らはいくら仕事とはいえ、厭な顔一つせず、真っ黒になって働いてくれた。彼らを裏切るような後ろめたさがあった。

そんな現場や、マルカのよくしていただいた人たち、一人ひとりに感謝の意を伝えた。みんな、心なしか寂しく微笑んで、体に気をつけてと言ってくれた。


英会話やギター仲間に別れを告げるのもつらかった。親しければ親しい人ほど、言い出しにくかった。どう伝えようか迷い、伝えるとビックリして、一瞬の沈黙があった。

よし、思いっきり、彼らとこの地で最後の年を楽しもうと思った。寂しさを紛らわせるためだったのかも知れない。


1989年2月24日、新宿御苑で昭和天皇の「大喪の礼」が執り行われ、日本は公休日となり、国民全体が喪に服した。

この自粛ムードの中、物々しい厳戒態勢にあった羽田空港へ、一番仲がよかった友人と向かった。あこがれの富良野にスキーに行くためだ。
何と非国民な!!右翼が聞いたら殺されていたかも知れない・・

スキーをやってる人間にとって富良野は聖地なのだ。ワールドカップが行われたこともある。そこのゲレンデで滑ったということだけで満足だった。

北海道のヘソ。大雪山連峰に抱かれて滑るスキーは最高だった。当然空いていた。あの「北の国から」の舞台。可愛いキタキツネにも出会った。

長崎に帰ったらスキーはできない。ゲレンデの雪が愛おしく感じられた。その雪の感触を体に刻み込んだ。


木更津ギターアンサンブルのメンバーともつらい別れをした。
その前年、僕がアランフェスを弾いて成功した10周年記念コンサートの再演として第2回レギュラーコンサートを5月に企画してくれた。そのステージで、一番親しかったO氏と二重奏をさせてもらった。

そのコンサート前の合宿では、みんなとの別れを惜しむかのように夜遅くまで酒を酌み交わし、ギター談義をし、ギターを爪弾きあった。


長崎からは一日も早く帰って来いとの催促があったが、帰る前にもう一つやっておかなければならないことがあった。海外への憧れだ。

一昨年のアメリカ留学に味をしめた僕は、今度はヨーロッパ旅行を企画し、これを最後にそのまま長崎へ帰ることを決めた。

79.決断のとき

長崎は僕にとって命の恩人となった。
市民病院を退院し、長崎の実家で療養していると、否が応でもその後の人生を考えた。

また君津に戻ってプラントエンジニアの仕事を継続するのか。海外で働きたい夢も捨て切れなかった。
しかし、所詮巨大な企業の歯車の一つにしか過ぎない現実というのも垣間見えていた。

また、あの地で誰かと結婚して、社宅に入ってしまう自分の姿なんてのも想像できなかったし、正直なところ、そうはなりたくなかった。そうなれば自分の人生が終わってしまいそうな気がして、なぜか許せなかった。

一方、長崎でいい仕事の話がきた。長崎に新しい放送局ができるという。その立ち上げを手伝わないかというのだ。またとないチャンスだった。

両親がこの機に、僕に帰って来て欲しいと思っているのは、痛いほど分かっていた。
またその時期、父が仕事の疲れからか声が出なくなったり、結婚した弟の子どもが病気になったり、僕のことを含め3つの不幸が同時に重なり、母が精神的に相当参っているのも知っていた。家族の受難の時期だった。長男の責任感が疼いた。


しかし、今の仕事を辞めて帰って来るには、あまりにも自分で作ってきたものが大きかった。それも手持ちバック一つから、たった一人で7年かけて作り上げた現在の生活には、言葉では言えないほど愛着があった。

全く知らない土地で一から培ってきた現在の人脈と生活を、あっさり捨ててしまうのか。共に現場で命の危険にさらされながら真っ黒になって働いた部下や同僚たちを見捨てるのか。英会話やギターを通じて知り合った友人たちに別れを告げるのか。愛する人の笑顔が浮かんで、泣きそうになった。


僕は、人生の岐路で悩んだとき、必ず行く所があった。長崎市内の南部に位置する甑岩という山の頂上の給水塔だ。
就職を決めたときも、夢破れて長崎に帰ってきたときも、その場所で踏ん切りをつけてきた。

今回もそこへ行った。給水塔の上によじ登って、長崎の美しい港や街並みと、遥か外海を交互に眺めやりながら、これからの針路を考えた。

僕の命を救ってくれた「この土地」で一から出直すのか、もう一度「あの土地」で夢を追い求めるのか・・・


そして「この土地」を選んだ。長崎へ帰ってこよう!僕の命を救ってくれた長崎に何らかの形で恩返しをしよう!!

自分勝手な漠然とした夢を追い求めるより、現実に自分が望まれていることに素直に応えることの方が、どれだけ大切なことだろう。

そう決意し、つらいつらい別れを告げに君津へ戻った。

夢を追い求めて、ひたすら走ってきた僕の昭和の時代が、天皇の崩御と共に終わり、新しい平成の時代がスタートした。

78.運命の再入院

1988年9月9日は、僕にとって生涯忘れられない日となった。

その日の前夜、いつものように寮の2階のベットで寝ていたら、深夜に急にお腹がせいた。
トイレに行ってしゃがみ込んだ途端、ドッと便器に血が噴き出すではないか。

「あ・・・まただ・・・」

あの悪夢が蘇る・・・丁度2年前、突然内科に入院し、41日間検査漬けとなった日のことが・・・

とりあえず、きょうは寝て、明日病院に行こうと思い床に就いた。

そして翌朝、ベットから起き上がろうとすると、何と動けない。こんなことは生まれて初めてのことだ。何とか転がるようにベットから落っこちた。

1階に寮監さんがいる。そこまでは何とか行かないと・・・
立てないから、這って行く。何てこった・・・これって軍隊の匍匐前進ってやつ??客観的に俯瞰している自分がいる。何かドラマのシーンのようだ・・・なんて思ってる場合じゃない。

階段を舐めるように這って下りて、何とか寮監の部屋に辿り着き、戸を叩いた。
「高木さ~~ん、た、助けてください・・・動けないんです・・・」

ビックリした寮監はすぐに救急車を呼んでくれ、またあの病院に入院することとなった。

今回の下血はひどかった。前回と違い、一度に多量に出血したようだ。
人間は約4リットルの血液が体内に流れており、その半分がなくなると失血死してしまうという。
僕の場合、3分の1以上失血していたから、もう少し遅かったら、寮の部屋で死んでいたかも知れなかった。

またしても検査漬けの病院生活が始まった。

主治医こそ違ったが、いや、違ったからなのか、前回と全く同じ検査が一から繰り返された。

僕も今度こそは徹底的に調べて原因究明してもらおうと思った。折角充実した生活を送っていたのに、こんなことで何度も中断されたくないからだ。僕にはまだやりたいことがあるんだ。
病院の中と外では世界が全く違うのは、厭と言うほど分かっていた。

「前回も同じようなことがあって、原因が分からないまま退院となったのです。今度こそ、どこから出血したのか、徹底的に調べてください」と主治医にお願いした。

折りしも9月19日、昭和天皇が吐血し入院し、日本中が自粛ムードになった。

天皇のその日の脈拍などの体調データがテレビで連日報道される中、自分も全く同じようにIVHでつながれ、体調データを記録する日々が続いた。昭和天皇と運命的なものを感じたのだが、ま、それは考え過ぎであろうが。

病院の検査結果は前回同様不明だった。同じ検査を繰り返すばかりで、出血源の特定には至らなかった。
もう、いい加減にして欲しかった。あれだけ出血したのに、どこから出たのか分からないのか??ここは病院だろう??と思った。

最後は手術同意書まで書かされ、血管造影検査をされたが、それでも分からないまま・・・そして退院となった。10/22のこと。44日間の入院となった。

さすがに今回は、上京してきた両親が真剣に心配し、地元でじっくり療養しながら調べてはと、長崎の病院への転院をすすめてくれた。

素直に従い、長崎へ帰り、10/29~11/21(24日間)まで長崎市民病院に入院することとなった。
この病院では、ゾンデ法という鼻から管を十二指腸まで下ろし、その管を通してバリウムを流しながらレントゲンで調べる検査を行った。

入院して1週間で、ついに出血源が判明した。小腸からの出血だった。

僕の人生の舵が大きく長崎へ切られた瞬間だった。

77.自由奔放の果てに

86年の秋、退院後すぐに元の生活が始まった。まだ若かったせいだろう、何事もなかったように現場に復帰した。

そして、引き続きやりたいことをやり、87年は、春先にギターアンサンブルで念願のアランフェスを弾き、夏場には先のアメリカ留学をも果たしたのだった。その秋には弟の方が先に結婚し、長崎へ帰って従姉妹と歌とギターの演奏で祝った。


88年は、僕にとって仕事に趣味に絶頂期であった。そして忘れられない年となった。

仕事では、発注元であるマルカ(新日鐵化学)から信頼され、山九からマルカへ逆出向し、マルカの担当者として年間10億の予算を任され、自分の所属先である山九に仕事を発注することとなった。通常、在り得ないことだ。
僕が先鞭をつけ、道を作り、後輩が続いた。今でも続いているはずだ。


英会話の勉強は、アメリカ留学の影響もあり、本気で考えるようになった。通退勤の車の中では、FEN(Far East Network)を聴くことを欠かさなかったし、ECC千葉校の土曜集中コースにも毎週通った。

どうせなら英語の最上級の資格を取りたいと、英検1級を目指したり、また仕事にできないかと、通訳案内業の国家試験を受けるために、東京・阿佐ヶ谷にある「ハロー通訳アカデミー」の日曜コースに、毎月1回、君津から内房線で通った。


スキーは、シーズンになると毎週末、場所を変えゲレンデを変えて、滑りまくった。友達と土曜の夜から徹夜で車で、東北や信州のスキー場までぶっ飛ばし、そのまま滑って、夕方帰って来るなんて無茶を平気でやっていた。

朝方の眠いこと眠いこと。よく事故をしなかったものだ。
しかし、安比高原スキー場のパウダースノーは忘れないなぁ~~。

こんなこともあった。スキーに行くため、イエローピアッッアで深夜、関越自動車道を130km/h超で飛ばしていたとき、暗闇の中から突然フラッシュが炊かれた。速度検知器の自動カメラだ。やられた~~~!!助手席の女性の顔と一緒にしっかり、車のナンバーが写されているはずだ。

スキーから帰ると、案の定、群馬県警から呼び出しの通知が来た。電話で平謝りし、遠いからと千葉県警に書類を回してもらったが、その後千葉県警から何の連絡もなかった。ラッキー!!(^^)v


夏場は、職場の仲間と2泊3日の北アルプスの白馬岳登山をした。日本最大の雪渓が残る谷間をアイゼンを履いて登り、頂上付近の日本最大収容人数を誇る白馬山荘へ泊まった。早朝、山小屋から白馬山頂へ登り、仰いだご来光は素晴らしかった。


とまあ、自由奔放な独身生活を大いに満喫していた。

そして、ついに運命の時が訪れた・・・

76.突然の入院

30歳を過ぎた86年の夏(8/16)、突然その兆候が現れた。

81年12月に入社して約5年、24時間休むことが許されない製鉄所の3K職場でとにかく必死に頑張っていた。立ち上がったCDQの整備も軌道に乗り、うちのチームはJK(自主管理)活動や、改善提案で数々の賞をとるなど活躍していた。
また、余暇も精力的に活動したことは、前回語った通りだ。

知らぬうちに疲れやストレスが溜まっていたのだろうか。
確かにそのころ少々疲れ気味で、たまに腹痛があったり、時々便に血が混じることがあった。

元々痔の気があったので、そのせいだろうと思い、意を決して近くの肛門科の門をたたいてみた。
出てきた医者は、僕の肛門に指を突っ込むなり、こう言った。「今すぐ内科に行ってください」と。

紹介されたのは木更津にある「君津中央病院」。内房では最大級の総合病院だ。
内科で診断を受けると、「即、入院してください」と言われてしまった。

周りが騒いだ。寮や職場や長崎の実家にも伝わり、大騒ぎとなった。
それまでケガしたことはあっても、入院などとは全く無縁の体だったからだ。
友人・知人・同僚や上司が、入れ替わり立ち代わり、見舞に来てくれた。長崎から両親もかけつけてくれた。

でも当の本人はケロッとしていた。何ともないのだ。痛くも痒くもなかった。

しかし、相当な失血状態だったらしく、多量に輸血をされながら、検査が始まった。どこから出血したのかを調べるためだ。レントゲンや胃カメラ、大腸ファイバーにエコー検査、様々な検査が続けられたが、出血源が分からない。

大病院だから週に1回の検査、その結果を見て、次の検査はまた翌週というゆっくりした入院となった。
ただ消化管からの出血だから食べるわけにはいかず、絶食状態。点滴だけで生かされていた。

入院が長くなってくると、高カロリー輸液(IVH)のカテーテルが肩から大静脈に入れられた。
不思議と腹が減らない。まるで自分は電池で動いているロボットみたいなもんだった。それも様々な検査台に乗せられ、上から下から検査器具を突っ込まれるから、さしずめ被験者ロボットだ。

しかし2~3週間経っても、出血源が分からない。
周りの人は「この際だから、ゆっくり体を休めなさい。」と言ってはくれたのだが、少々焦ってきた。

しかし最後まで、分からなかった。とうとう主治医は「あらゆる検査をしたのですが、どこから出血したのか、残念ながら分かりません。でも出血は止まっていますので、大丈夫です。退院しましょう。」と、さじを投げた。

すでに40日が経過していた。何かすっきりしない気持ちは残ったが、退院できる嬉しさが先行した。
何より1分粥から3分、5分、7分粥とご飯粒が増えていくのが嬉しくてしょうがなかった。
食べ物のありがたさを知っただけでも入院した甲斐があったようなもんだ。

そして晴れ晴れとした気持ちで退院した(9/15)のだが、僕の人生に大きな転期が訪れてきていることを、まだ知る由もなかった。

75.ギターアンサンブルの愉しみ

アメリカ留学から2~3年時代を遡る。

製鉄所内でハードな仕事をこなしながらも、余暇は、同僚や英会話学校で知り合った仲間たちと、テニスにスキーにドライブに温泉にと遊び回った。ゴルフにも手を染め、館山CCの夕暮れゴルフや鹿野山CCの早朝ゴルフなどで腕を磨いた。行動範囲は、房総半島を飛び出し、伊豆、軽井沢、信州、東北とどんどん拡がっていった。

それだけ楽しんでいても何か一つ足りない。そろそろあの虫が動き出した。そう、高校~大学とずっと僕の趣味の中心であって、中断していたギターだ。

一人で弾いているより、アンサンブルをした方が楽しいことは、経験上知っている。しかし、こんな君津の片田舎でギターを弾いている人なんかいるんだろうか・・・

そんな中、ある筋から「木更津ギターアンサンブル・ファミリーズ」というクラシックギターサークルがあることを知って、早速門をたたいた。84年ごろの話だ。
メンバーは学校の先生や公務員や主婦が中心。腕はないが、ギターが本当に好きな気のいい人たちばかりだった。

そして、彼らのギターをみてビックリ!アルトギター、バスギター、ギタロンなどを使う、いわゆる「新堀メソード」なのだ。
それに、フルートを組み合わせたりして、クラシックやポピュラーの名曲からセンスよく選曲して弾いていた。

その辺の都会のギターサークルより、よっぽどあか抜けていた。
入会早々、地元の千葉テレビ「お茶の間房総」にも出演し、演奏を披露した(85/5/27)。

僕もむかし取った杵柄。徐々に調子を取り戻すと、このサークルの中核となっていった。
ファミリーズに僕から少し遅れて入会したO氏とは、年齢も近く、ギターの趣味が合うので特に親しくなり、よく彼の家に行って二重奏を楽しむようになった。

クラシックギター界では知らぬ者はいないジュリアン・ブリームとジョン・ウイリアムスの「ジュリアン&ジョン クラシックギター世紀の二重奏」の曲などを練習しては、発表会で披露した。二人で喫茶店でミニ演奏会を開いたこともあった。

だんだんと高じてきたO氏と僕は、ギター仲間5人と「千葉ギター愛好会」を結成し、千葉市民会館小ホールで第1回演奏会を開いた(86/5/14)。独奏・二重奏・合奏を組み合わせた演奏会だった。ギター歴は長い僕だが、さすがに独奏を弾くのは初めてのことだったので、いささか緊張した。J.W.デュアルテの「イギリス組曲 op.31」を弾いた。ま、あんなもんだろう。

そして、忘れもしない木更津市民会館小ホールで開かれた「ギターアンサンブル・ファミリーズ10周年記念コンサート」(87/5/24)。夢にまでみたロドリーゴの「アランフェス協奏曲」第二楽章のソロを弾かせてもらった。このことは、一生の想い出となった。
バックはもちろんフィルオケとは違い、少々物足りなかったが、僕にとっては二の次だ。スポットライトを浴びて奏でるアランフェスのソロ。カデンツァから徐々に盛り上がり、あの有名な哀愁のメロディーをトゥッティで奏で、そして静かに二楽章を終えたのだった。

このころは本当に、仕事に、趣味にと、充実した独身生活をエンジョイしていた。

あのことが起こるまでは・・・

肩をすぼめて

きょうの別荘は寒かった。


先生に遅ればせながら「今年もよろしくお願いします」と年始のあいさつを。

「後半戦ですね」

治療は40週続けられるかが、一つの目処だそうだ。ってことは後3週。


薬害肝炎訴訟も、1/11に薬害肝炎救済法が成立し、1/15に基本合意書締結を迎えた。

肝炎の権威である先生も「1年前は、まさかこうなろうとは考えもしなかったですね」と言われた。

「原告団が、自分たちだけのことで妥協せず、全員一律救済を貫いたことが、社会の支持を得られたんでしょうね」と言ったとき、原告団の山口さんや福田さんの顔が浮かんだ。


自分自身のその救済法の適用について質問したら、「まだ詳細な手続きなどが決まっていないから、それができてからでいいですよ。乗り遅れることはありません」と言われる。

僕はそのとき、自分が原告団のおこぼれに群がるハイエナのように思えてきて、恥じ入ってしまった。


病院に身を寄せる鳩も肩をすぼめていた。
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長崎には「墓・坂・馬鹿」が多いと揶揄されますが、「先人(歴史・文化)を敬うハカ・人の苦労(斜面都市・殉教・被爆)を知るサカ・自らを捨て人に尽くす(まつり・地域活動・平和運動)バカ」のことだと解釈し、このハカサカバカ精神で行動しながら、ケルン(記事)を積んでいます。

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