ビルマで戦死した伯父の慰霊

 一昨年亡くなった母の11歳上の兄國治は1945年3月20日、ビルマ(現ミャンマー)のパコック県レッセで戦死した。享年25。陸軍曹長だった。



 父と母は戦後49年の年に、母の兄の五十回忌法要としてビルマ戦死者の慰霊ツアーに参加して、きれいにアルバムに整理していた。そのアルバムのメモにあった死亡日、死亡した場所、「歩兵153連隊」というキーワードを辿って、どんな戦いで亡くなったのかをネットで調べてみた。

■イラワジ会戦
 「インパール作戦」(昭和19年3月~7月)は、10万人の軍隊を投入し、戦闘のほか、飢えやマラリア、赤痢で死者は3万人、戦傷病者は4万5千人に上り、無謀な戦争の代名詞とされた。
 そのインパール作戦の敗戦から落ち込んでいた日本軍は、戦力回復を狙ってイラワジ河でイギリス連邦軍と戦った。この「イラワジ会戦」は昭和19年12月から昭和20年3月28日にかけて行われた。
 最後は3月28日の会議で、メイクテーラ奪還を強行し続けた田中方面軍参謀長に第33軍参謀辻政信大佐は自軍の対戦車戦闘による多大な損害を述べた上で、
「敵戦車1両を破壊するのに火砲1門と人員50名の犠牲とを必要とする。したがって残存約100両の戦車を破壊するためには約80門の火砲と5千の人員を補充しなければならない。それまでにしてなお、作戦を継続し、メイクテーラ奪還を強行しなければならぬかどうか、方面の真意を承りたい」
 と詰め寄り、いまだ攻撃意思を持っていた田中参謀長をしてついに第33軍の任務解除を承諾させた。これによりイラワジ会戦は終結した。
 イラワジ渡河以降、3月末までの英連邦軍の損害は概算して約1万8千名(内7,500は戦病者)で、日本軍の損害も概算して12,913名である。この後の後退戦において日本軍は、敗戦までに15万人以上の戦死者を出している。 あえて決戦を強行したことによってビルマ方面軍の破滅を早めてしまったことは日本軍にとって大きな痛手となった。(wikipediaより)

large_000000.jpg 
▲伯父が亡くなった3月20日に撮られたイギリス軍のビルマ南部マンダレー南部での進軍の写真。
 戦利品である日章旗を誇示している。この日章旗の寄せ書きに伯父の関係者はいなかっただろうか。この兵士らと戦ったのではないだろうか。あと1週間生き延びていれば、この戦いは終わっていたのになどと思ってしまう。
 このイギリス軍戦車に対し、日本軍は歩兵による肉薄攻撃、あるいはタ弾による直接砲兵射撃によって応戦し惨烈な戦いを続け、イギリス軍は死守する日本兵に感嘆したのだという。


DSC_2499.jpg DSC_2501.jpg
▲イラワジ河湖畔のパガンで慰霊する父と母(前中央)DSC_2500.jpg
▲この時、母は遺族代表として追悼の辞を述べた。
DSC_2495.jpg

追悼の辞
 国治兄さん 妹のみつ乃です
 今日は主人と一緒に慰霊巡拝のツアーに参加して参りました
 ここパガンの地に立ち 雄大なイラワジ河の流れを望むとき
 母の言葉を思い出し胸が一杯です
 丁度 昭和二十年三月二十日夜 母が夢の中に国治兄さんが
 家の二階の窓から 絣の着物姿で「お母さん」と大きな声で叫びながら
 広い河の中を下流の方へ流されて行く様子をはっきり見たと、幼い私達に話をしてくれていました
 母はどれだけ悲しんでいたことか
 でも国治兄さんもどんなにか辛かったでしょう 苦しかったことでしょう
 本当にご苦労様でした
 今わたくしは母の思いをここに来て ようやく果たしたような気持で安心しています
 餅田家の家族は、父、母、康一兄さん、徳ちゃんが他界してしまいましたが、八千代姉ちゃん、八重子姉ちゃん、しげちゃん、みんなそれぞれに良いお母さんになって幸福に暮らしています
 ただ正樹兄さんだけが健康を害して入院加療中ですが、子供達が皆んな立派な社会人に成長してよく面倒をみています
 今日本は平和で自由で生活も楽になりました
 わたくし共家族もみなしあわせに元気に暮らしています
 これも国治兄さん初め多くの戦争犠牲者の方々のお陰です 心から感謝しています
 私共 現地で五十回忌の法要ができましたことを大変嬉しく思っています
 どうか安らかにご永眠ください こころからご冥福をお祈りいたします
    合掌   
 平成六年三月二十九日  林田みつ乃

Allied_Third_Burma_Campaign_June_1944-May_1945.jpg

キリシタンの悲劇と復活

長崎文献社文化フォーラム◆世界遺産登録を前に考える
10728_キリシタンの悲劇と復活2「キリシタンの悲劇と復活」
10728_キリシタンの悲劇と復活1
7/28(金)18:30からNBCビデオホールで開かれたフォーラムの主なテーマは3つ。

■天正遣欧使節の一人千々石ミゲルはなぜイエズス会を脱会したのか?
→キリスト教が持つ愛ある顔ではなく、敵意ある顔を持っていたイエズス会をミゲルは批判し、対立より共存をと主張していたことに起因するのではないか。このことは紛争が絶えない現代にも通じることである。先見の明があった。ミゲルは最後までキリシタンであった。(大石一久)

■元和の大殉教の処刑地はどこだったか?
→ローマのジェズ教会にあるその殉教の絵と現地を詳細に比較すると、26聖人殉教地の北、現在の御船蔵町にある天理教肥長大教会の裏手の丘であることが分かった。(布袋厚)

■浦上四番崩れの一解釈
→島原の乱以降の前期の崩れ(大村郡、豊後、濃尾)には厳しい処罰が下されたが、後期の崩れ(浦上1~3番、天草)には柔和だった。浦上四番崩れでは、明治政府の柔和派と長崎裁判所の強硬派との攻防があった。一村総流罪ではなく分配預託。悲劇一辺倒で良いのか。今日的評価と史実を区別し、評価は受け手に任せるべき。(安高啓明)
10728_キリシタンの悲劇と復活3 

tag : http://admin.blog.fc2.com/control.php?mode=editor&

親父の話~7.23長崎大水害

 きのう、1982.7.23に299人の犠牲者を出した長崎大水害から35年を迎えた。11時に黙祷のサイレンが鳴り、浦上キリシタン資料館で打ち合わせをしていた岩波さんと安元さんと一緒に1分間の黙祷を捧げた。
 あの日、僕は千葉に住んでいて、翌日の新聞でこの大惨事のことを知って心配になり、昼ごろ実家に電話をかけたところ、母から「あんた、今ごろかけてきて!うちは大変やったとばい。災害対策本部みたいになっとったとよ」と言われたことを思い出す。
 父にそのことを聞いてみた。以下父の話。

 当時は水道局長で、その頃ずっと日照が続いていて、また制限給水をしなければと検討していた矢先だった。久しぶりに振り出した雨に職員たちと共に喜び、局長んちでお祝いをしようという話しになり、10人ほどで大手町の実家に向かった。しかし、着くころには土砂降り。タクシーから降りて玄関に入るわずか2~3mの間でずぶぬれになるほどバケツをひっくり返したような雨であった。飲みだして早々、余りにも激しい雨が続くので職員の1人がちょっと見てくると出て行った。そして帰ってくるなり、「大変だ。浦上川が道路にまであふれてきていて、昭和橋が流されてなくなっている」との報告。それは大変だ。役所に戻らなければと、大手町から西山を越えて桜町の水道局まで10人はずぶぬれになりながら歩いて戻った。
 本庁でも助役を筆頭に災害対策本部が立ち上がった。しかし、本島市長はそこにはいなかった。雲仙で行われてた会議から戻って、銅座の行きつけの「たまお」で飲んでいて、出られなくなったという。そのことは後日、週刊誌が叩いた。
 被害状況が刻々と伝わってきた。山間では土砂崩れが各地で起こり、犠牲者が出た。中島川も橋が流され、あの眼鏡橋も上部が流されたが、橋げたはしっかり残ったため、そこに流木がひっかかり返って街中に水をあふれさすこととなった。思案橋辺りでは暗渠から水が噴き上がり、街全体を浸水させた。現在も思案橋の鉄塔に当時の水位を示す印が刻まれているが、背丈ほど高い。
 水道関係では、各水源地のダムから大量な水があふれ、下部にある浄水場の給水ポンプが水につかって動かなくなった。そして給水塔に水が送れなくなり、雪浦や神浦ダムから給水を受けてる地区以外は全市で水道が使えなくなった。
 8/9の原爆慰霊祭までには復旧しようという方針を出し、連日連夜の工事を続け、やっと前日に復旧を成し遂げた、という。

 この大水害や先日の北部九州豪雨で亡くなられた方々のご冥福を心よりお祈りします。
 自然災害はいつ誰の身に起こっても不思議ではない。備えよ常に❗はボーイスカウトの精神だ。

親父の話

 独り暮らしをしている親父の家に毎週水曜日に泊まりに行っている。夜、親父の手料理(肉ばかりだが…😅)をご馳走になりながら昔話を聞くのが楽しい。
 現在89歳、最近物忘れが激しくなったと言うが、昔のことはよく覚えている。高校を出て市役所務め一筋だったので、市長が官選だった最後の岡田寿吉(S16就任)から、公選となった初代の大橋博(S22)、田川務(S26)、諸谷義武(S42)、本島等(S54)と5人の市長の下で仕えてきたから、長崎の歴史を聞くようで面白い。
 祖父も市役所で水道畑だったらしいから、特に水道行政に詳しい。西山高部水源地にある社宅に住んでいたこともあったという。
 父も母も桜馬場に住んでいて、卓球を通して出会ったという。愛ちゃんと同じ?😄
 桜馬場は春徳寺から下りてくる道を境に蛍茶屋の方を上の切り、諏訪神社の方を下の切りと呼んでいたという。
 二人は長崎で初の神前結婚を始めた伊勢宮神宮で結婚。媒酌人は消防局長だった。
 そう言えば、新たな衝撃の?事実を知った。うちの寺は曹洞宗高林寺なのだが、父が上長崎小に通ってたころは臨済宗春徳寺だったというではないか!え?春徳寺って江戸の禁教令で破壊された長崎初の教会トードス・オス・サントスの後に移ってきた寺ばい!いつ変わったと?と聞くと、分からないという。何でも春徳寺の息子さんと仲が良く、息子さんがご住職に付いて父の家にお参りに来る時、恥ずかしがってたという。
 話は尽きない。お昼になった。この続きはまた😄✋
isenomiya.jpg isenomiya1.jpg isenomiya2.jpg 

カレンダー
06 | 2017/07 | 08
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 - - - - -
最新記事
プロフィール

リンデン

Author:リンデン
リンデンの長崎ケルンへようこそ!

長崎には「墓・坂・馬鹿」が多いと揶揄されますが、「先人(歴史・文化)を敬うハカ・人の苦労(斜面都市・殉教・被爆)を知るサカ・自らを捨て人に尽くす(まつり・地域活動・平和運動)バカ」のことだと解釈し、このハカサカバカ精神で行動しながら、ケルン(記事)を積んでいます。

あなたもよかったら、ケルン(コメント)を積んでいってくださいね。

facebook
twitter
mixi
freeml
you-tube

カテゴリ
最新コメント
リンク
月別(表示数指定)
検索フォーム
FC2カウンター
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

RSSリンクの表示
QRコード
QRコード
フリーエリア