親父の話~7.23長崎大水害

 きのう、1982.7.23に299人の犠牲者を出した長崎大水害から35年を迎えた。11時に黙祷のサイレンが鳴り、浦上キリシタン資料館で打ち合わせをしていた岩波さんと安元さんと一緒に1分間の黙祷を捧げた。
 あの日、僕は千葉に住んでいて、翌日の新聞でこの大惨事のことを知って心配になり、昼ごろ実家に電話をかけたところ、母から「あんた、今ごろかけてきて!うちは大変やったとばい。災害対策本部みたいになっとったとよ」と言われたことを思い出す。
 父にそのことを聞いてみた。以下父の話。

 当時は水道局長で、その頃ずっと日照が続いていて、また制限給水をしなければと検討していた矢先だった。久しぶりに振り出した雨に職員たちと共に喜び、局長んちでお祝いをしようという話しになり、10人ほどで大手町の実家に向かった。しかし、着くころには土砂降り。タクシーから降りて玄関に入るわずか2~3mの間でずぶぬれになるほどバケツをひっくり返したような雨であった。飲みだして早々、余りにも激しい雨が続くので職員の1人がちょっと見てくると出て行った。そして帰ってくるなり、「大変だ。浦上川が道路にまであふれてきていて、昭和橋が流されてなくなっている」との報告。それは大変だ。役所に戻らなければと、大手町から西山を越えて桜町の水道局まで10人はずぶぬれになりながら歩いて戻った。
 本庁でも助役を筆頭に災害対策本部が立ち上がった。しかし、本島市長はそこにはいなかった。雲仙で行われてた会議から戻って、銅座の行きつけの「たまお」で飲んでいて、出られなくなったという。そのことは後日、週刊誌が叩いた。
 被害状況が刻々と伝わってきた。山間では土砂崩れが各地で起こり、犠牲者が出た。中島川も橋が流され、あの眼鏡橋も上部が流されたが、橋げたはしっかり残ったため、そこに流木がひっかかり返って街中に水をあふれさすこととなった。思案橋辺りでは暗渠から水が噴き上がり、街全体を浸水させた。現在も思案橋の鉄塔に当時の水位を示す印が刻まれているが、背丈ほど高い。
 水道関係では、各水源地のダムから大量な水があふれ、下部にある浄水場の給水ポンプが水につかって動かなくなった。そして給水塔に水が送れなくなり、雪浦や神浦ダムから給水を受けてる地区以外は全市で水道が使えなくなった。
 8/9の原爆慰霊祭までには復旧しようという方針を出し、連日連夜の工事を続け、やっと前日に復旧を成し遂げた、という。

 この大水害や先日の北部九州豪雨で亡くなられた方々のご冥福を心よりお祈りします。
 自然災害はいつ誰の身に起こっても不思議ではない。備えよ常に❗はボーイスカウトの精神だ。

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長崎には「墓・坂・馬鹿」が多いと揶揄されますが、「先人(歴史・文化)を敬うハカ・人の苦労(斜面都市・殉教・被爆)を知るサカ・自らを捨て人に尽くす(まつり・地域活動・平和運動)バカ」のことだと解釈し、このハカサカバカ精神で行動しながら、ケルン(記事)を積んでいます。

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