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邪馬台国は北部九州だ!

皆さんは「邪馬台国」はどこにあったと思いますか??
ご承知の通り、この所在地については、主に九州説と畿内説があり、何と150年も争っている。

この論争に必ずといって持ち出される「魏志倭人伝」に邪馬台国に至るルートが記述されている訳だが、その解釈を巡って百花繚乱しているのだ。

そのルートとして記載されている対馬(對馬國)→壱岐(一大國)→松浦(末廬國)を有する長崎県としては、無関心ではいられない。

邪馬台国ブームの先駆けとなった島原の宮崎康平氏の「まぼろしの邪馬台国」をはじめ、古代史に詳しい大学のM先輩の影響もあって、たまにこの手の本を読んでいた。

しかし、M先輩の話や、ここに紹介する本を読んで九州説を確信した。

まずは、M先輩がQMCメーリングリストで連載された投稿の件名を引用しよう。

箸墓と卑弥呼は関係なか! だいたいがくさ、邪馬台国論争なんちゅうもんは既に北九州ということで論争は終わってしまっとうとばってん、ま~だガタガタ言いよう人がおるのは、考古学者やメディアがこれでメシを食っているからで、彼らを助ける為に我々トウシローが付き合って差し上げとうと。彼らの世界では先輩に異論が言えないらしく、彼らもストレスが溜まって大変やなぁと思う今日この頃。今日も邪馬台国論争は終わってない振りをして、ちょこちょこ騒いで当分は楽しませてもらいまっしょ。

面白い先輩でしょ??(笑)

この九州王朝説の大御所といえば、古田武彦氏。

氏の記念碑的著作・「邪馬台国」はなかった―解読された倭人伝の謎
この本はぜひ、皆さんもご一読をお願いしたい!!

畿内説を唱える誰しもが、倭人伝にある方角や里数を勝手に誤記だとして、何とか畿内へもってこようとするが、この本は一切そういう都合のいい読み方をしない。誰もが納得するやり方でその所在地を求めた結果が、たまたま北部九州だったというだけだ。

M先輩によれば、考古学者はほぼ畿内説で、古田氏の九州説に具体的に反論できないので、ただひたすら無視を決め込んでいるという。分かっていても、九州説について書くことはタブーだという学者さえいるという。

古事記・日本書紀のいわゆる「記紀」も、大和を中心として書かれ、九州王朝のことを抹殺し、偽りに満ちた記載をしている。
端的に言えば、天皇は万世一系でなくてはならず、それも大和出身でなければ困る訳だ。

思想がからむと面倒くさい。事実は事実として受け入れなくては学問の発展はない。

昨年来、奈良の箸墓古墳のことがメディアを騒がせていたが、「箸墓が卑弥呼の墓だ」というのは全く根拠がない絵空事なのだ。

古田氏の上記以外の二作を紹介しておこう。これらを含めて「古田三部作」と呼ばれる。
失われた九州王朝―天皇家以前の古代史
盗まれた神話―記・紀の秘密

◆古田三部作
  
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ジャンル : 小説・文学

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いやはや

古代史は奥が深いですね!
また皆さん、関心が高いし、お詳しい。

こちらもバックボーンが浅いから、ふむふむと聞くだけですばい(笑)

ななしさん、どっかで書かれてらっしゃるなら、ご紹介ください。

No title

こんな邪馬台国畿内説もありました。
http://www2.odn.ne.jp/~cic04500/yamataikoku.html

記紀に書いてあることを時系列で並べてみると

明治天皇はそんなに関係ないですねw 「万世一系的」の秘密は、天忍穂耳命、天火明命、ニニギ尊の時代に関係ありますね。

記紀に書いてあることを時系列で並べてみると

①出雲の大国主命による国造り
②出雲国譲り・・・大国主命が天津神(皇室の先祖たち)に降伏
③天孫降臨・・・ニニギ(神武の曽祖父)が、高天原から高千穂(九州南部)に降臨。
④日向三代
⑤神武東征・・・日向から畿内へ東征

と、こういうふうな順番になるんですが...

普通、畿内王権による天下統一は、神武東征か、あるいは、それ以降と思われています。が、違うと思うんですね、私は。

畿内王権が初めて天下を取ったのは、出雲国譲りの時だと思うんです。だからこそ、出雲王朝からの禅譲を倭王の正当性と位置付け、ヤマト王権は、出雲の神様も大切にしているんです。

そして、この出雲国譲りが起こったのは、皇室の系図で言うと、神武天皇の曽祖父にあたるニニギ尊の時代に起こっています、記紀によれば。そして、出雲国譲りの直後、ニニギ尊は高天原から九州南部の高千穂に降臨し、そこで皇室の祖先は三代を過ごすのです。

でも、これって不思議ですよねw 出雲と戦って降伏させたのに、なんで九州南部に皇室の祖先が移り住んだのか? そして、どうも、出雲国譲りの直後、近畿地方に居座り続けた一族もいたんですね。それが、天火明命といって、ニニギ尊の兄上とされている神様(豪族)なのです。そして、日本最古の辞書とされている延喜式によると、葛城地方(現在の奈良県御所市高天の周辺)を高天原の地と考えて、書かれているようなのです。

とまあ、今回はここまでにしておきます。

No title

> 九州王朝説のファン

九州に住んどったら、やっぱちょっと贔屓目になりますかね。でも納得がゆく説明があれば、いつでもそれを捨てれますよ。

「出雲国譲り」??
興味深々です。それは前にご紹介いただいた本にあるのですかね。それもいつか勉強したいですね。

万世一系的とは・・・ひょっとして明治天皇??
何か面白そうなものを表面的に飛びついてるだけの私ですが・・・

記紀に記された王朝交代の歴史

当ブログの管理人さんは九州王朝説のファンだということは分かりました。九州王朝説もなかなか面白い説だと思います。
しなしながら、私は違いますね。皇室には秘密があることには同意していますが...

王朝交代の話に関しては、戦後、津田氏の三王朝交代説などが提起されてきました。これは、皇室の万世一系の捏造とし、少なくとも、崇神、応神、継体の三天皇の時に、王朝は交代したという説ですね。

でも、私はそういうのは信じてないですね。そもそも、記紀では、王朝交代自体は隠していません。その王朝交代とは、ワカミケヌ(神武天皇)よりも前の時代に起こっています。

それは出雲国譲りです。これは、皇室の先祖よりも前の覇者である出雲王朝から、皇室の先祖たちが覇権を譲渡された出来事です。中国風の言い方をすれば、「禅譲」ってやつですね。「禅譲」の意味をぐーぐってみてください。日本の皇室は長い間、この出雲王朝からの「禅譲」を自身の倭王としての正統性の根拠と位置付けていました。

そんなわけですから、もし、自分たちの歴史や家系を長くするために、王朝交代の歴史を隠すのなら、出雲国譲りすら隠します。そして、大国主命のことも、自分たちの万世一系の系図につなげていたはずです。が、皇室はそれはしていないです。

よって、出雲国譲り以降は一応、日本では王朝交代せずに、万世一系的に王朝が続いていたのでしょう......といきたいのですが、ここに凄い秘密が隠されているのです。ここで私の言葉で重要なのでは、「万世一系」といわずに「万世一系的」と言ったことです。そして、ここでもう一つ、忘れてはいけないことは、現在の日本の皇室の先祖的なものが政権を獲得した最初は、神武東征からではなくて、それよりも前の時代にあった出雲国譲りによって政権を獲得したことです。

あと、志賀島の金印は??邪馬台国は?? については、また今度、お話します。

> 参考になる書籍

早速のご紹介ありがとうございます。
ぜひ読ませていただきますね。

> そんな九州王朝がなんたらというようなものは、ないと思いますw

あらま・・・志賀島の金印は??邪馬台国は??

> 古事記、日本書紀では、王朝交代の歴史を隠していません。それは、どこだと思いますか?

いや、分かりません。どこなんでしょう・・・??

参考になる書籍

参考になる書籍です。

日本書紀の謎を解く―述作者は誰か
森博達 (著)

古代海部氏の系図
金久与市 (著)

他にもありますが、とりあえず思いついてのはこれです。

日本書紀に出てくる「一書」というのは、系譜に関することが多く、記紀が編纂された当時は既に様々な伝承が多くあって、どれが正しいか分からなくなっていたんだと思いますが、ただ、そんな九州王朝がなんたらというようなものは、ないと思いますw

ちなみに、古事記、日本書紀では、王朝交代の歴史を隠していません。それは、どこだと思いますか?

> おこめさん

おぉ~~、おこめさんも、古代史の魅力に・・・

それ、じっくり勉強させてもらいま~~す!!

No title

CMタイム。。。

わたくしの住んでいる所は、奈良盆地と一致する地名が多いだけでなく、
その位置、方向までも一致しています。
だから、北部九州地方の勢力が大和へ東遷し、やがて大和朝廷を樹立
したことを示すものではないかと言われています。


http://yamatai.cside.com/tousennsetu/yasumotosetu3.htm#timei

ちょっと面白いでしょ?

> ななしさん

詳しいご説明ありがとうございます。
なるほど、勉強になります。

その日本書紀に出てくる「一書」というものが何なのか、それこそが九州王朝で書かれたものではないのか、そしてそれを抹殺したのではないかというのが九州王朝説の方の疑いだと認識していますが、この点はどうなのでしょうか??

ぜひ参考になる本のご紹介よろしくお願いします。

記紀の記述がいい加減かどうか

記紀の記述がいい加減かどうか...ですが、その真偽は別として、正史として、長い期間をかけて編纂したわけですから、いい加減とは思いません。ただし、何らかの改竄はあったと思います。

日本書紀は、中国との外交に使う正史です。たとえば、中国の外交官が訪日する場合、まず、日本書紀で予習してから訪日しました。そして、その記述は編年体で書かれており、くわしく、治世○年~日 まで詳しく年代が書かれています。(また、「一書...」というふうに、複数の説も記載するなど、一つの説で断定的に書かれてはいなく、そういう面は意外に公平です。)

しかしながら、それよりも前に書かれて古事記には、詳しい年代は書かれていません。古事記は基本的に国内向けの記述です。

おそらく、日本書記や古事記が編纂された当時は既に、詳しい歴史年代の資料などはなかったと思われ、当時の朝廷は、中国との外交において、編年体で書かれた正史が必要だったことから、無理して編年体で歴史書を作る必要に迫られていた、その結果が、日本書紀の年代になったのでは?と思います。おそらく、その当時の伝承に近い形の史書は、日本書紀よりも古事記のほうではないでしょうか。

よって、古事記と日本書紀の編纂目的の違いを比較することも、非常に面白いと思います。そして、注目すべきことは、その後、朝廷は、日本書紀のほうを正史としながらも、この記述に違いがある古事記と日本書紀の両方を公家の教養史料として指定していたことです。

つまり、朝廷は、一つの史観に絞るわけではなく、後世の人たちに歴史研究を託したともいえるわけで、そういう面は意外に公正な態度も言えます。

あと、参考文献になる本は、後日、いろいろと紹介します。

> ななしさん

ケルン、ありがとうございます。

ななしさん、お詳しいんですね。そうですね。仮に大和だったとしても、皇室の歴史の謎は残りますね。それだけ記紀の記述はいい加減みたいですね。
何か参考になる本とかあったら教えていただければ助かります。

一応、突っ込みを入れておきますが

一応、突っ込みを入れておきますが、右翼・皇国史観の大家・本居宣長は、邪馬台国九州説でしたよw むしろ、邪馬台国畿内説のほうが、中国とのかかわりから、邪馬台国をみないといけないと明言していました。

邪馬台国=大和国だったとしても、皇国史観だったり、天皇の権威を守ったことにはなりません。なぜなら、この場合、中国の朝貢したのが天皇家ということになり、また、当時のヤマト王権の王制が記紀に書かれている天皇制とは少し違っていたことになるからです。

つまり、邪馬台国ヤマト説だったとしても、皇室の歴史に謎が出てくることになる。
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