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旧浦上天主堂~失われた被爆遺産~写真展

8月10日から12日まで観光通りで、「旧浦上天主堂~失われた被爆遺産」の写真展が行われた。

何もかも失った長崎の町から、復興の息吹が芽生え始めたころの写真で、非常に胸を打つ。

この心揺さぶられる写真を撮られたのは高原至さん。1923年長崎市生まれ。
東京大空襲を受け、長崎に疎開してきた後、被爆。その後、報道の仕事(毎日新聞写真記者)で浦上の惨禍を写真におさめてこられたという。

ちなみに僕の同級生からこの写真展の案内を受けたのだが、その彼女が高原さんの娘だと知り、ビックリ。長崎は狭い町だからこういうことがしょっちゅうある。

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▲8/12付長崎新聞記事

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▲写真展の受付をしていた高原さんの娘・あき子さんと、手伝いにみえたという大塚さん。僕は大塚さんとも面識があったのだが、彼女の親戚だと聞き二度ビックリ。

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▲観光通りの大丸前からまちなか龍馬館までの間に57枚が展示された。

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▲1949年、フランシスコ・ザビエルが日本にキリスト教を伝来してから400年を記念する国際的な式典が、被爆地長崎で行われた際の写真。

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▲浦上天主堂の前。左のなだらかな坂は長崎大学医学部へ向かう坂であろう。

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▲説明書きにあるように高原さんが廃墟の中で無邪気に遊ぶ子どもたちに涙したというが、今でもその感動が伝わってくる。

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▲1953年当時の「長崎の鐘」だ。1946年、仮鐘楼が鉄骨に造りかえられた。現在でもこの鐘は浦上天主堂の右の鐘楼で鳴り響いている。

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▲1958年、いよいよ浦上天主堂は解体された。当時、この遺構を残すか解体するかで、市議会でも激しい論争があった。当時の田川市長は当初残す考えだったのだが、アメリカに訪問して帰国したら考えがすっかり変ってしまっていたという。信徒のこの地に対する思い入れもあったため、ついに取り壊され、この地に新しい天主堂が再建された。

もしこの浦上天主堂が被爆遺構として残っていたら、広島の原爆ドーム以上の訴求力があったろう。残念である。キリスト教国であるアメリカは、自分たちが破壊した教会を残して欲しくなかったであろうことは間違いない。当時の田川市長とどういう話し合いがあったのであろうか。セントポール市と姉妹都市になるのが交換条件だったという推量もある。

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▲廃墟の中の花嫁。昨年、この花嫁が誰であったのかが判明して話題になった。→長崎新聞の記事

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▲この写真から位置関係を推測すると、左の手前が現在の山里小学校、その向こうが南山高校、そのまた向こうが山里中学校であろう。まだ本原方面に道路が延びていないのが分かる。

今年4月に写真集を出された。ぜひ、ご一読を→長崎 旧浦上天主堂 1945-58 失われた被爆遺産
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テーマ : 長崎
ジャンル : 地域情報

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> snowdropさん

コメントありがとうございます。

いろんな方々にご紹介していただければ幸いです。

明日が長崎原爆投下の日

>もしこの浦上天主堂が被爆遺構として残っていたら、広島の原爆ドーム以上の訴求力があったろう。残念である。キリスト教国であるアメリカは、自分たちが破壊した教会を残して欲しくなかったであろうことは間違いない。

そのとおりですね。

写真も多く、わかりやすかったです。自分のブログでも紹介させてくださいませ。
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長崎には「墓・坂・馬鹿」が多いと揶揄されますが、「先人(歴史・文化)を敬うハカ・人の苦労(斜面都市・殉教・被爆)を知るサカ・自らを捨て人に尽くす(まつり・地域活動・平和運動)バカ」のことだと解釈し、このハカサカバカ精神で行動しながら、ケルン(記事)を積んでいます。

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